うたごえ運動
うたごえ運動(うたごえうんどう)は、合唱を中心とする日本の音楽運動であり、社会運動である。合唱曲、平和のうた、労働歌、ロシア民謡などをレパートリーとしつつ、創作活動も行っている。「日本のうたごえ全国協議会」があり、約400の合唱団が加盟している[1]。
うたごえ運動は、1960年代に職場や学生のサークル、当時流行した歌声喫茶などを拠点に全国的な流行を見た。また、日本の工業化や農村離れが進むなか、失われつつある民謡や演舞などを掘り起こすという民族主義的な面も持ち合わせていた。
目次
歴史
- 1948年2月10日、関鑑子の指導のもとに日本共産青年同盟の音楽部門として中央合唱団が結成される[2]。
- 1953年11月29日、「第1回1953年日本のうたごえ祭典」が日比谷公会堂、共立講堂(東京)で開催され、約6000人が参加[3]。
- 1954年11月27日、「原爆許すまじ-1954年日本のうたごえ祭典」が共立講堂、東京都体育館(東京)で開催され、約1万5000人が参加[3]。
- 1955年11月26日、「1955年日本のうたごえ祭典」が国際スタジアム(東京)で開催。5万人が参加。同年、新宿でうたごえ喫茶「カチューシャ」開店[3]。
- 1956年1月20日、関鑑子と美空ひばりが懇談[4]。同年、新宿にうたごえ喫茶「灯 (ともしび) 」開店。
- 1964年、第1回全国学生うたごえ祭典[5]。
- 1965年11月4日、全電通、全逓、全林野が中心となって日本社会党をはじめ、私鉄、国労、全専売などの労働組合とその関係者たちは日本音楽協議会(初代会長は芥川也寸志[6])を結成し[7]、うたごえ運動から離脱する。
- 1970年、歌劇「沖縄」全国公演を成功させようと決議[8]。
- 1971年4月、日本のうたごえ実行委員会理論誌「季刊日本のうたごえ」が創刊[8]。
- 1973年8月25日、第6回日本のうたごえ実行委員会総会で、「日本のうたごえ実行委員会」を「日本のうたごえ全国協議会」に改称するなどを規約改正案が採択[8]。
うたごえ運動とポピュラー音楽
創作を活動の源泉とするうたごえ運動であるが、荒木栄などが活躍した1960年頃から1970年代初頭までの間は、自分たち以外の音楽ジャンルについて、ジャズやポップスはアメリカ帝国主義の日本への文化侵略、演歌や歌謡曲は単なる大衆迎合などという解釈を与えていた。また、当時流行していた「反戦フォーク」等に対しては、「社会派歌謡曲」「資本に泳がされている」「大衆の不満をそらすためのガス抜き弁」等との解釈を与え、ほぼ敵対に近い状態であった。現在では、そのような考え方は克服されている。なお、1970年頃より、フォークソングが「うたごえ運動」の主要なレパートリーとして定着している。
1970年代になって安保闘争など左翼の大衆運動が衰退すると、今度はポップスを研究して新しい傾向の創作を始めた。
また、日本のポピュラー音楽界にも、上條恒彦やさとう宗幸のように、歌声喫茶のリーダーの経験者もいる。いずみたくは、うたごえ運動より、日本のポップスの作曲をたくさん手がけている。
うたごえの表記
うたごえ運動においては、「うたごえ」とひらがな表記を行う。これは、関鑑子が運動提唱当初において「広く大衆に、誰でも読めるように」と、漢字の「歌声」を避けたことによる。
うたごえと人権運動
「うたは闘いとともに」のスローガンのもとに、企業で不当差別されている人を励ます創作曲が多く作られている。
また、うたごえの創作曲ではないが、アメリカの反戦フォーク曲などもうたごえで歌われることが多い。ベトナム戦争時にはベトナム人民の戦いを励ます歌も多く作られた。
うたごえでよく歌われる歌
うたごえ運動でよく歌われる歌は、みんなで歌いやすく、広く普及している歌が中心である。ロシア民謡やフォークソングもよく歌われる。ジャズは取り上げられることがまれである。
うたごえ運動から生まれ広く普及した歌
たたかいの歌
唱歌・フォークソング
ロシア民謡
ラテンアメリカ歌謡
- ケサラ
- ベンセレーモス など