吉備団子

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吉備団子(きびだんご)

黍団子(きびだんご)は、文字通り「」(きび)を粉にしてこしらえた団子で、遅くとも15世紀末には用例がある[1][2]桃太郎おとぎ話では犬・キジ・猿に「きびだんご」を与えてお供を得ることが知られるが、元禄の頃までは「きびだんご」ならず「とう団子」等だったという考察がある[3]

吉備団子(きびだんご)は、岡山県土産として有名な菓子の一種。江戸時代末期(19世紀中葉)に考案された[4]。餅米の粉を混ぜて求肥を作り、これを整形して小さく平な円形(碁石形)に仕上げる。黍の粉を混ぜて風味づけするものもあるが、使わないものもある[注 1]。ただ、岡山名産「きびだんご」については、当初から桃太郎の黍団子も吉備国で製される団子もひっくるめての呼称として使われてきた経歴がある[5]

黍団子

ファイル:Momotaro Hasegawa cover 1886.jpg
犬に「きびだんご」を与える桃太郎。 David Tomson 英訳 Momotaro (1886年)

早期の記述としては、『山科家礼記』には 1488年長享2年)3月19日に「黍團子」の記述がある[2][6] 。『日葡辞書』にもキビダンゴは「黍の団子」と定義される[1][注 2]

吉備津神社

吉備国、特に吉備津神社[注 3]と「黍団子」という食べ物のとあいだには、少なくとも17世紀初頭までにはなにかしらのゆかりができていた。これは俳人志田義秀「日本の伝説と童話|」(1941年)に紹介される一首一句から判明する[7][8]

まず細川幽斎1610年没)が「備中吉備津宮にて詠める」と詞書で前置きした狂歌「神はきねがならはしなれば先づ搗きて団子にしたき吉備津宮かな」がある。『古今夷曲集』(寛文6年(1666年)刊)に撰されている。この歌では「きね」は「巫女」と「杵」をかけており、黍粉に砕くためか黍餅を練るためかは不詳だが、ともかく「きびだんご」の製法は、杵で搗かれる手順があることが言及される。おそらく参詣者には「きびだんご」がふるまわれたことがあったのだろうが、「当時すでに吉備津神社売られていた」とまで言い切る書籍もある[9]

年代は下るが、似た内容の俳句備中国の信充が吉備で詠んだ「餅雪や日本一の吉備だんご」があり、こちらは『崑山集』(慶安4年(1651年)成立)に所収される。志田は、「日本一の吉備だんご」の一句が大昔から桃太郎にはつきものと信じきっているゆえ、この俳句が桃太郎を指すことは「動かしがたい」と納得しているが、それは誤認であり、実際には「日本一」どころか「きびだんご」すらも、俳句より数十年経た系統本でないと桃太郎の話にあらわれないという考証を小池(後述)が行っている[10]

桃太郎

草双紙の研究家である小池藤五郎が諸本を比べて結論したところでは、初期の頃の桃太郎物語には「きびだんご」は登場しなかった。元禄頃(1688年から1704年)の桃太郎は「とう団子(十団子)」であり、その他、「黍団子」以前の古い話には「大仏餅」・「いくよ餅」が出てくるという。また、黍団子に「日本一」がつくのは元文頃(1736年)だという[10]島津久基なども、「日本一の黍団子」の成句が当然、室町時代より桃太郎伝説で成立していたとみていたが、小池はそれに反駁したのである。

吉備団子

起源

岡山の名物菓子は、廣榮堂が安政(1854年-1859年)のはじめに考案したのというのが定説になっている[11][注 4]。ただ、正確を期すならば、「廣榮堂の祖先」らが合作したものが先駆けであった[12][13][14]この廣榮堂は、以後、廣榮堂本店と廣榮堂武田に分かれて現在に至っている[15]。郷土史家の岡長平の著書に詳しいが、それによると経緯は次のようなものである。

1855年(安政2年乙卯年)に岡山城下の町人が鳩首して、赤色のかきもち風の四角形の和菓子を茶請け用として製造した。うち1人は、岡山市古京町の唐津焼商売の名代の伴呂翁はテンプレート:Refn、廣榮堂を創立した武田家の一門(武田伴蔵の祖父)であった。この「かきもち状」の菓子は、嗜み用の非売品であったが、「無銘も如何かと、種々考えた結果、国称を付して《吉備だん粉(きびだん粉)》と名づけて吹聴」したのが今の吉備団子の起源である、と、ここまでが明治の風俗史研究家、紅の家お色(紅廼家お色)「きびだんご考」に記されているという[12][13][14]

最初は知人・親戚に配っていただけだが、本格的な商売にしたところ、城下町で評判となる。武田伴蔵(1901年に81歳で没)は「相歓堂」という店を構えて、妾に売らせていた[12]テンプレート:Refn。ここで「少し細長い餡をかけた」黍製の団子を売っていたとの報告もあるが、ほんとうは「掻餅だろう」と岡長平は否定するテンプレート:Refn「相歓堂」の女主人の死後、伴蔵の親族である廣榮堂の初代、武田浅次郎が商売を引継いだ[12]

今日の求肥製のやわらかい箱詰めの「きびだんご」になったのは、この武田浅次郎の代の出来事であると、西尾吉太郎(『山陽新報』創設者)談にある[12]。浅次郎自身の著書にも、明治維新以降になってから、四角(短冊形)だったものを、碁石2個ぐらいの丸形を箱に30個詰か50個詰にするよう改めた、としている[16]。求肥式の考案については、(元)備前池田藩家老で、茶人の伊木三猿斎(伊木忠澄が隠居後1869年に名乗った雅号。1886年没)の指導のもと、昔から吉備津神社にあった黍団子に着想して創り出されたという記述も見られる[9]

その後、1885年(明治18年)に明治天皇が岡山に行幸の際、旧池田藩の者から献上され、たいへん美味ということで「日本にふたつとあらぬ吉備団子/むべあじわいに名をえしや是」の一首を賜り、この御製を菓子箱に刷り込むようになった[9][17]

異説

異説としては、江戸初期に、吉備津神社の祭礼においての供え物を「御直会」と称して酒宴の席で関係者に振舞った慣例があり、その参拝土産品が、「吉備団子」に発展したという見解を、岡山大学教授であった谷口澄夫などが挙げている[18][19]

同じく岡山大学教授で吉備津神社宮司の家系である藤井駿は、『備中往来』や石井了節の『備中集成志大全』(1753年宝暦3年))において、吉備津神社門前町周辺で販売されたと紹介される「宮内飴」が吉備団子のヒントとなったのではないかと述べている[8][注 5]

日清・日露戦争

吉備団子を全国的に有名にしたのは、山陽鉄道日清戦争のための輸送を担ったことが大きく関係している[14][20][21]。当時山陽線は大本営が置かれた広島市まで開通していて、全国の兵士は山陽線を通って広島に集結し宇品港から戦地に向かった。この戦争の動員による人々の移動が「おみやげ」を生み出した[20]。戦地に赴く兵士たちが出征する際には、郷土の親戚や知人らが餞別を贈るが、運よく無事に凱旋した場合には、それらの人々に「おみやげ」を配ることになったのである[14][20]。廣榮堂の主人・武田浅次郎は、自ら広島宇品港へ出かけ、桃太郎の扮装で『日本一の吉備団子』ののぼりを立て彼らを出迎え、積極的な拡販策を展開した。武田は、対外戦争に鬼退治というイメージを重ね、帰還してきた兵士たちを桃太郎になぞらえた。吉備団子は、兵士たちの多くが通過する岡山駅という地の利と、鬼を成敗した桃太郎というイメージ戦略とが複合することで急成長し、岡山を代表する名物として全国へその名を馳せるようになった[14][20]

1897年(明治30年)ごろまでにおいて、12軒の「本舗」を名乗る土産店が現出した[22][18]。水廼家(水の家隆成)「日本一の吉備団子」(1901年)をみると、「廣榮堂の原料は、黍、糯、砂糖。山月堂は糯と砂糖」であって、山月堂の方は「黍」を使っていないので「かの日本一の吉備団子とは別物なりと自称」していた[23][12]

近況

室町時代に広まったとされる桃太郎の話と、和菓子としての吉備団子には直接的な関係はないが、岡山が地元を桃太郎伝説のふるさととして創出する一環として[24][注 3]、現在は、駅販売で双方をリンクさせた宣伝がされ、桃太郎の絵がパッケージに印刷された製品も店頭に並ぶ。

最近の製品は黍の割合がかなり低く、使用していない商品もある。また整形もオートメーション化されていることが多い。

同じく岡山県の特産品であるマスカットのシロップを包み込んだ「マスカットきびだんご」や、白桃のシロップを包み込んだ「白桃きびだんご」、吉備団子にきな粉をまぶした「きなこきびだんご」など、数種類のバリエーション商品がある。

B&Bの漫才の中で広島のもみじまんじゅうと共にネタの一つになっていた。

脚注

補注

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出典

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参考文献

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関連項目

外部リンク

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  1. 1.0 1.1 テンプレート:Harvnb. "【黍団子】キビの実の粉[の]団子。〈日葡〉"
  2. 2.0 2.1 テンプレート:Citation
  3. テンプレート:Harvnb
  4. テンプレート:Cite book)
  5. テンプレート:Harvnb "When used to refer to a local specialty of Okayama, [K]ibi-dango has always meant both millet dumplings of the Momotaro story and a dumpling of the Kibi region"
  6. また、『日本国語大辞典』「きび‐だんご」の項
  7. テンプレート:Harvnb
  8. 8.0 8.1 藤井駿 『吉備地方史の研究』 山陽新聞社、1980年、91-92頁。
  9. 9.0 9.1 9.2 テンプレート:Citation
  10. 10.0 10.1 テンプレート:Harvnb
  11. テンプレート:Citation
  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 12.5 テンプレート:Harvnb
  13. 13.0 13.1 テンプレート:Citation
  14. 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 きびだんご・和菓子 廣榮堂本店:廣榮堂のきびだんご150年のあゆみ 廣榮堂本店、2013年5月3日閲覧。
  15. テンプレート:Harvnb
  16. テンプレート:Harvnb
  17. テンプレート:Harvnb
  18. 18.0 18.1 テンプレート:Citation ; 1984年、付録46頁。
  19. テンプレート:Citation
  20. 20.0 20.1 20.2 20.3 鈴木勇一郎 『おみやげと鉄道 名物で語る日本近代史』 講談社、2013年、47-52頁
  21. テンプレート:Cite journal
  22. テンプレート:Harvnb。『山陽新報』に拠った市勢統計。
  23. テンプレート:Cite journalテンプレート:NDLJP
  24. テンプレート:Harvnb、"現在,岡山の桃太郎伝説の三大根拠とされるのが,名物の吉備団子⑸と桃、そして、吉備津彦命の温羅退治伝説である"


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