吉備津神社

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テンプレート:Otheruseslist テンプレート:神社 吉備津神社(きびつじんじゃ)は、岡山県岡山市北区にある神社式内社名神大社)、備中国一宮旧社格官幣中社で、現在は神社本庁別表神社

「吉備津彦神社(きびつひこ-)」とも称したが、現在は「吉備津神社」が正式名である[1]

概要

ファイル:吉備の中山 (吉備津神社から).JPG
神体山とする吉備の中山
(右端は参道の松並木)

岡山市西部、備前国備中国の境の吉備の中山(標高175m)の北西麓に北面して鎮座する。吉備の中山は古来より神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座する。当社と吉備津彦神社とも、主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、命の一族を配祀する。

本来は吉備国の総鎮守であったが、吉備国の三国への分割により備中国の一宮とされ、分霊が備前国・備後国の一宮(備前:吉備津彦神社、備後:吉備津神社)となったとされる[2][3]

足利義満造営とされる比翼入母屋造の本殿は、独特の「吉備津造」で、拝殿とともに国宝指定。また社殿3棟が国重要文化財指定のほか、特殊神事の鳴釜神事が有名。

当地出身の政治家犬養毅は、犬養家の遠祖・犬飼健命が大吉備津彦命の随神として当社を崇敬した。神池の畔に犬養毅の銅像が建ち、吉備津神社の社号標も犬養毅の揮毫である。

祭神

主祭神
第7代孝霊天皇の第三皇子で、元の名をテンプレート:ルビ命(または五十狭芹彦命)。崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣になったとされる。
相殿神

古くは「吉備津五所大明神」として、正宮と他の4社の5社で一社を成した(他4社の祭神は後述の「摂末社」項参照)。

 


歴史

社伝によれば、祭神の大吉備津彦命は吉備中山の麓の茅葺宮に住み、281歳で亡くなって山頂に葬られた。5代目の子孫の加夜臣奈留美命が茅葺宮に社殿を造営し、命を祀ったのが創建とする説もある。また、吉備国に行幸した仁徳天皇が、大吉備津彦命の業績を称えて5つの社殿と72の末社を創建したという説もある。

朝廷からの篤い崇敬を受け、国史では承和14年(847年)に従四位下の神階を受けた記載が最初で、翌年には従四位上に進んだ。仁寿2年(852年)には四品(しほん)、10世紀には一品(いっぽん)の品位(ほんい)も受けた。『延喜式神名帳』では「備中国賀夜郡 吉備津彦神社」として名神大社に列した[4]

中世には武家の崇敬を受け、たびたび社殿の修復や社領の寄進があった。江戸中期には三重塔を破却し神仏分離を行った。

明治4年(1871年)に国幣中社に列し、公称を現在の「吉備津神社」に定めた。大正3年(1914年)には官幣中社に昇格した。

神階

いずれも表記は「吉備津彦神」。

境内

本殿及び拝殿

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本殿と拝殿(国宝)
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室町時代明徳元年(1390年)、後光厳天皇の命で室町幕府3代将軍・足利義満応永12年(1405年)再建し、応永32年(1425年)に遷座した。比翼入母屋造の本殿の手前に切妻造、平入りの拝殿が接続し、合わせて1棟として国宝に指定された。比翼入母屋造とは、入母屋造の屋根を前後に2つ並べた屋根形式で、「吉備津造」ともいう。

本殿の大きさは、出雲大社本殿、八坂神社本殿に匹敵するもので、随所に仏教建築の影響がみられる。地面より一段高く、漆喰塗の土壇(亀腹)の上に建ち、平面は桁行正面五間、背面七間、梁間八間で、屋根は檜皮葺とする。内部は中央に閉鎖的な内々陣とその手前の内陣があり、その周囲を一段低い中陣とし、中陣の手前はさらに一段低い朱の壇(あけのだん)とし、これらの周囲にさらに低い外陣が一周する。このように、外側から内側へ向けて徐々に床高を高くする特異な構造である。壁面上半には神社には珍しい連子窓をめぐらす。挿肘木、皿斗、虹梁の形状など、神社本殿に大仏様(だいぶつよう)を応用した唯一の例とされる。

拝殿は本殿と同時に造営され、桁行(側面)三間、梁間(正面)一間妻入りで、正面は切妻造、背面は本殿に接続。正面と側面には裳階(もこし)を設ける。屋根は本殿と同じく檜皮葺だが、裳階は本瓦葺きとする[5][6]

その他の社殿

  • 南随身門
南北朝時代延文2年(1357年)の再建。吉備津神社では最古。単層入母屋造本瓦葺。本宮社への回廊途中に建つ。国の重要文化財に指定[10]

摂末社

古くは5つの社殿と72の末社があったとされる。5つの社殿(本社正宮・本宮社・新宮社・内宮社・岩山宮)を「吉備津五所大明神」と総称した[11]。現在、新宮社と内宮社は本宮社に合祀されている。

  • 本宮社 - 五所大明神の1社。祭神:孝霊天皇(第7代。大吉備津彦命の父)
    • 新宮社 - 五所大明神の1社。祭神:吉備武彦命(若日子建吉備津日子命の子)。本宮社に合祀。明治末までは南方の東山に鎮座
    • 内宮社 - 五所大明神の1社。祭神:百田弓矢比売命(大吉備津彦命の妃)。本宮社に合祀。元は吉備の中山の南部山上に鎮座
  • 三社宮 - 次の3社を総称
    • 春日宮
    • 大神宮
    • 八幡宮
  • 岩山宮 - 五所大明神の1社。祭神:建日方別命(吉備国の地主神)
  • 滝祭神社
  • えびす社
  • 祖霊社
  • 一童社
  • 宇賀神社 - 神池の島に鎮座

主な祭事


文化財

国宝

  • 本殿及び拝殿(附 棟札[明和6年]、棟札[弘化2年]) - 昭和27年指定、昭和45年追加指定

重要文化財(国指定)

  • 南随身門 - 明治44年指定
  • 北随身門 - 大正2年指定
  • 御釜殿 - 昭和55年指定
  • 木造獅子狛犬一対 - 鎌倉時代後期から南北朝にかけてのもの。本殿内々陣の東西に立つ。平成14年指定[12]

岡山県指定文化財

有形文化財
  • 回廊 - 昭和51年指定
  • 大太刀(法光) - 岡山県立博物館に寄託。平成6年指定[13]
  • 大太刀(銘 備州長船秀幸) - 岡山県立博物館に寄託。昭和57年指定[14]
  • 行道面 - 岡山県立博物館に寄託。昭和51年指定[15]
  • 高麗版一切経 - 昭和34年指定[16]
  • 紙本墨書連歌 - 昭和34年指定[17]
無形民俗文化財
  • 宮内踊 - 門前町の宮内地区で7月31日に行われる。昭和34年指定

登場作品

現地情報

所在地
交通アクセス

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  • 中鉄バス国道180号方面「吉備津神社」行き)で、「吉備津神社」終点バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
  • 中鉄バス(国道180号方面「稲荷山」行き、または「大井行き」)で、「吉備津神社参道口」バス停下車 (下車後徒歩2分)
  • 備北バス東総社経由「地頭」行き)で、「吉備津神社参道口」バス停下車 (下車後徒歩2分)

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付属施設
  • 吉備津弓道場
周辺
  • 吉備の中山
境内後方の吉備の中山には多くの古墳や古代祭祀遺跡が残り、古くより神体山として信仰されたと考えられている。中央の茶臼山(160m)山頂には大吉備津彦命の墓とされる古墳があるほか、最高峰の北峰・竜王山(標高175m)山頂には吉備津彦神社が祀る磐座がある[18]

脚注

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参考文献

  • 谷川健一 編『日本の神々 -神社と聖地- 2 山陽 四国』(白水社)吉備津神社項
  • 『日本歴史地名大系 岡山県の地名』(平凡社)岡山市 吉備津神社項
  • 藤井学・山崎浩之編『改訂増補 備中吉備津神社文書 中世篇』(法藏館、平成24年)

関連項目

神社

外部リンク

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  1. 現在、備中・備後一宮は「吉備津神社」を名乗るが、備前一宮のみ「吉備津彦神社」を名乗る。
  2. 現在も備中の吉備津神社は三備一宮や吉備総鎮守を名乗る。
  3. なお備前の吉備津彦神社側では、分霊による創建の伝承はない。
  4. 皇學館大学出版部『式内社調査報告 第二十二巻 山陽道』。
  5. 『週刊朝日百科 日本の国宝』29号、朝日新聞社、1997、pp.2 - 281 - 2 - 283
  6. 吉備津神社本殿及び拝殿(おかやまの文化財)。
  7. 吉備津神社御釜殿(おかやまの文化財)。
  8. 吉備津神社回廊(おかやまの文化財)。
  9. 吉備津神社北随身門(おかやまの文化財)。
  10. 吉備津神社南随身門(おかやまの文化財)。
  11. 『岡山県の地名』吉備津彦神社項。
  12. 木造獅子狛犬(おかやまの文化財)。
  13. 大太刀 法光(おかやまの文化財)。
  14. 大太刀 銘備州長船秀幸(おかやまの文化財)。
  15. 行道面(おかやまの文化財)。
  16. 高麗版一切経(おかやまの文化財)。
  17. 本墨書連歌(おかやまの文化財)。
  18. 吉備の中山を守る会(外部リンク)参照。
  19. 伝賀陽氏館跡(おかやまの文化財)。