正徹

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正徹(しょうてつ、永徳元年(1381年) - 長禄3年5月9日1459年6月9日))は、室町時代中期の臨済宗の歌僧。道号は清巌(岩)、庵号は招(松)月庵。石清水八幡宮に仕える祀官一族の出身で、父は小松(または小田)康清といわれ、備中国(現岡山県)小田郡の小田荘を知行していた。俗名は正清。

和歌冷泉為尹今川了俊(貞世)に学ぶ。応永21年(1414年出家法号を正徹と号した。京都東福寺の書記であったことから徹書記とも呼ばれた。室町幕府6代将軍足利義教忌避され謫居(たっきょ)。そのためか『新続古今和歌集』に正徹の歌は入集していない。義教の没後は歌壇に復帰し活躍。歌人のみならず古典学者としても評価をされており、8代将軍足利義政に『源氏物語』の講義を行っている事等が知られている。

20000首近くの詠が現存する、室町時代最大の歌人。歌風も際立って特色あり、二条派からは異端視されたが、藤原定家を尊崇し、時に前衛的、象徴的、夢幻的で、独自の幽玄の風体を開拓した。門下には心敬らがいる。家集に『草根集』、歌論に『正徹物語』(小川剛生訳注、角川ソフィア文庫)がある。

また、古典学者としては『源氏物語』の研究のほか、『伊勢物語』などの物語類や藤原定家などの歌人の家集など、多くの古典籍の書写を行い、現存の伝本流布に貢献している。なかでも正徹の書写した『徒然草』は現存最古の写本として重要なものであり、彼が「つれづれ草は枕草子をつぎて書きたる物也」と、両書を同じ文学の形態として認めた点は、現代では常識であるが、当時の文学史家として優れた着眼点といえる。

没後500年以上たった2001年、出身地の岡山県小田郡矢掛町小田地区では、「正徹を顕彰する会」が結成され、井原鉄道小田駅の駅前広場に顕彰碑などが立てられている。

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