室戸台風
テンプレート:台風 (画像なし) 室戸台風(むろとたいふう)は、1934年(昭和9年)9月21日に高知県室戸岬付近に上陸し、京阪神地方を中心として甚大な被害をもたらした台風。記録的な最低気圧・最大瞬間風速を観測し、高潮被害や強風による建物の倒壊被害によって約3000人の死者・行方不明者を出した。枕崎台風(1945年)、伊勢湾台風(1959年)と並んで昭和の三大台風のひとつに数えられる。
目次
概要
人的被害は、死者2,702人、不明334人、負傷者14,994人[1]。家屋の全半壊および一部損壊92,740棟、床上・床下浸水401,157棟、船舶の沈没・流失・破損27,594隻という被害を出した[1]。
9月21日午前5時頃に高知県室戸岬西方に上陸。上陸時の気圧として911.6ヘクトパスカル(当時の単位はミリバール)という数値を観測しているが、これは日本の台風観測史上記録的な数値である。台風は淡路島付近を通過し、午前8時頃に阪神間に再上陸、京都付近を経て若狭湾に出た。台風進路右側では強風のため建造物の倒壊被害が大きく、とくに学校の木造校舎の倒壊により児童・教員など学校関係者に多くの犠牲者が出た。また、大阪湾岸では高潮により大きな被害が出た[2]。京阪神地方における被害は「関西風水害」の名で呼ばれる。
観測記録
室戸岬上陸時の中心気圧は911.6ミリバールであり、日本本土に上陸した台風のなかで観測史上最も上陸時の中心気圧が低い台風である。これは同緯度の台風における中心気圧の最低記録として、いまだに破られていない(ただし、台風の正式な統計は1951年(昭和26年)から開始されたため、この記録は参考記録扱いとされる)。
当時、大阪管区気象台所属の室戸岬測候所では最大瞬間風速60m/sを観測したのを最後に観測機が故障し、正確な数値は分かっていない。しかし、室戸台風の経験から建築基準法では2000年(平成12年)に改正されるまで、建物の「耐風性」を最大瞬間風速61mに耐えられるように定められていた。 テンプレート:台風の中心気圧 (陸上)
被害状況
四国地方
近畿地方
京阪神の被害概況
台風は午前8時頃、大阪と神戸の間に再上陸した。
再上陸時には満潮を過ぎていたがまだ潮位は高かったことと最大瞬間風速60m/sという強風により、4メートルを超える高潮が発生した[3]。高潮に関しては、大阪港の築港路上の記録として30分の間に200cmを超える海水の流入があり、地盤沈下の影響もあり滞留した内水と押し寄せる海水の影響で、大阪城付近まで湛水したという。あまりの急な水位の上昇に避難が間に合わず、大阪湾一帯で溺死した者は1,900名以上と推定されている。
暴風に関しては、学校や寺院を筆頭に、比較的大きな建築物に被害が相次いだ。特に、木造の小学校校舎では児童・教職員に多数の犠牲者を出した。
大阪府
大阪市内の小学校244校と実業補習学校2校のうち、被災を免れたのは鉄筋コンクリート造り及び1928年(昭和3年)以降建築の耐震型最新式木造校舎の66校のみであった。構造的に劣る古い木造校舎を使用していた残り180校480棟全てが全壊・半壊・大破する結果となった。折悪しく最大の風速に達したのが登校時刻の午前8時前後、強風が直撃した木造校舎が一瞬にして粉砕崩壊、あるいは押し倒されるように倒壊し、中にいた児童や職員、心配して迎えに来た保護者に多数の犠牲者を出した。大阪市内の小学校内における死者は合計267名(職員7名・使丁2名・児童251名・保護者7名)に達し、重軽傷者は合計1571名に上った。校外における死者18名、重軽傷者610名に対して、校舎の破壊によっていかに多くの校内死傷者を出したかが分かる。大阪城公園には死者を慰霊する塔(教育塔)が建てられている[4]。
大阪市西淀川区外島町(現在の中島2丁目北西部)にあったハンセン病療養所「外島保養院」は高波によって、入所者173名、職員3名、職員家族11名、計187名が死亡した。生き残った入所者は一時別の療養所に移されたが、1938年(昭和13年)に邑久光明園(現国立療養所邑久光明園)が岡山県に設立されて移動した。中島川沿いの外島保養院の跡地に記念碑がある。なお、旧外島町や布屋町の辺りは1950年のジェーン台風でついに海没し、以降13年間放置されていたが、4年がかりで再陸地化されて現在に至っている。
また四天王寺でも、1812年(文化9年)に建造された五重塔と仁王門がバラバラに吹き砕かれ全壊、金堂が大破傾斜する大被害を出した。
京都府
京都府では京都市内・乙訓・山城地域に被害が集中した[5]。府域の被害は、死者240名、負傷者1258名・全壊家屋2890戸、半壊家屋4096戸[5]。
京都市内の淳和校(現:西院小学校)では校舎が倒壊(児童を守るためにわが身を投げ出し殉職した松浦訓導の慰霊碑が知恩院にある)[5]。両洋中学では倒壊した校舎内で薬品が自然発火し、生き埋めになっていた生徒20名が焼死した[5]。そのほか西陣小学校・下鳥羽校・向島校で倒壊した校舎で多数の死亡者が出た[5]。京都府女子師範学校付属中学・京都第二中学・平安中学・紫野中学などで校舎が被災した[5]。
神社仏閣の被害は神社関係では上賀茂神社・下賀茂神社の国宝建築物や伏見稲荷大社の大鳥居など21棟が倒壊、170社以上が被害を被った。寺院では知恩院・西本願寺・建仁寺方丈・醍醐三宝院純浄庵など27寺院が倒壊、900を超える寺院で被害が出た。このほかにも上京区役所・勧業館・岡崎公会堂本館・京都病院・宇多野療養所などが全半壊したり大破した[5]。
また周辺山地で倒木や折損が多数発生したが、多くは回収や復旧処理が行われず、翌1935年(昭和10年)6月の豪雨(鴨川水害)では倒木が河川に流出して被害を拡大させる結果となった[5]。
滋賀県
東海道線の瀬田川橋梁上では急行車両が強風により脱線・転覆し、11名が死亡、202名が負傷した(日本の鉄道事故 (1949年以前)#東海道線瀬田川鉄橋急行列車脱線転覆事故参照)。
脚注
参考文献
- 大阪市『昭和大阪市史 第六巻 社会篇』、1953年
- 大阪市『昭和大阪市史 第七巻 文化篇』、1953年[1]
- 大阪府『大阪府風水害誌』、1936年
- 大阪管区気象台編『大阪の気象百年』、日本気象協会関西本部、1982年
- 兵庫県『昭和九年風水害誌』 1935年
関連項目
- 第2室戸台風 - 1961年の台風。日本上陸後の進路が室戸台風と類似しているところから命名された。
外部リンク
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