ヴァルミア=マズールィ県

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ヴァルミア=マズールィ県
(Województwo warmińsko-mazurskie)
160px 160px
位置
250px
情報
地域: ポーランド北部
県都: オルシュティン
面積: 24,203  km²
人口
 - 合計
 - 人口密度

約1,465,000 人
61   人/km²
郡: 19
グミナ: 116
略号: N
県番号: 28
県知事: Adam Supeł
公式ウェブサイト: 県庁公式ウェブサイト

ヴァルミア=マズールィ県 (Województwo warmińsko-mazurskie) はポーランド北部のである。
県都はオルシュティン。北ではバルト海ロシア飛び地カリーニングラード州と接していて、国内ではポドラシェ県マゾフシェ県クヤヴィ・ポモージェ県ポモージェ県と接している。東プロイセンの南部に相当する。

歴史

ファイル:Rzeczpospolita Royal Ducal.png
1575年のプロシア地方
ポーランド王領プロイセン(薄いピンク)と
プロシア公領(斜線)

この一帯はプロシアドイツ語プロイセン、ポーランド語プルスィ)地方と呼ぶ。プロシア地方の都市の大部分に混血バルト・ドイツ人が住んでいたが、ドイツ騎士団の支配を嫌い、1440年プロシア連合を結成してポーランド王国に直接従属した。プロシア連合を庇護するポーランド王国とプロシア連合支配を目論むドイツ騎士団の激しい戦いの結果、ポーランド王国が勝利し、1466年よりこの地の西部はポーランド王国の領土であるポーランド王領プロシア、東部はポーランド王国に従属するドイツ騎士団領。ドイツ騎士団領内であっても諸都市はポーランド王国による直接の庇護を受けた。

ドイツ騎士団領は1525年より騎士修道会としての領有を廃止して世俗化し、ポーランド王国を宗主国とする従属国プロシア公領として、ポーランド=リトアニア同君連合王国の領土となる。プロシア公領内の諸都市は1569年自由都市としてポーランド王国に直接加盟した。

1660年、プロシア公領はポーランド内外の大戦乱で敵国側に寝返り、オリヴァ条約で独立しプロイセン公国となった。プロイセン公国は1701年よりブランデンブルク公国と合わせて「王国」を自称することを始め、プロイセン王国となった。1772年第1次ポーランド分割によりポーランド王領プロシア全域と、ポーランド王国に加盟していた諸都市はプロイセン王国に併合された。のちにこの一帯はドイツ帝国領となった。

第一次世界大戦でドイツ帝国が敗北すると、新生ポーランドが独立し、ヴェルサイユ条約によりエルブロンクなどがある西プロシア地方を獲得、ポーランド領の一地方とした。残った東部はドイツ領東プロイセンとしてそのままドイツの飛び地となった。1939年ナチス・ドイツソビエト連邦によるポーランド侵攻で西プロシア地方はナチス・ドイツに実効支配されたが、これは単なる暴力的占領でありドイツ領として正式には認められていない。

1945年第二次世界大戦のドイツ敗北によってソ連軍が占領。ヤルタ会談に従ってポーランドは西プロシアの全域とドイツ領東プロイセンの南半分を獲得して、そのままヴァルミア県とマズールィ県となった(ドイツ領東プロイセンの北半分はカリーニングラード州としてソ連が併合)。

1999年の県合併によりヴァルミア=マズールィ県となって現在に至る。

地域区分

観光地

太字は読むときのアクセント(強勢)。

バルチャニ

バルチャニ(Barciany)は先住民である古プロシア人の村であったが、チュートン騎士団によって征服され、1240年に砦が築かれた。14世紀に建設されたチュートン騎士団城や教会が見どころ。自治体(グミナ)の公式サイト(ポーランド語)[1]あり。

エルブロンク

ルブロンクは中世にはプロシア人の街であったがチュートン騎士団に征服され、ハンザ都市となった。1440年にはチュートン騎士団支配を嫌って自治領連合であるプロシア連合の都市としてポーランドの王の庇護を受け、1466年よりポーランド王領プロイセンの都市として発展した。1569年より正式にポーランド王国に加盟。1772年の第一次ポーランド分割よりプロイセン王国領となる。その後ドイツ帝国領を経て第二次世界大戦後に再びポーランド領。第二次世界大戦におけるドイツ軍ソ連軍の戦闘で街は破壊された。戦後は2つの教会が復元されたほかは1960年代まで旧市街は放置されていたが、1989年より旧市街はポーランド市民の手で破壊前の姿に復元されつつあり、2006年の時点で旧市街の75%が復元されている。エルブロンクとオストゥルダ(「オストゥルダ」参照)とを結ぶ運河では遊覧船が運航されている[2]。また、フロムボルク(下記「フロムボルク」参照)との間ではフェリーが運航されている。市公式サイト(英語・ポーランド語・ドイツ語・ロシア語)あり[3]

フロムボルク

ムボルク(Frombork)は中世古プロシア人の要塞都市として建設されたが、13世紀にチュートン騎士団に征服され、のち神聖ローマ帝国領。チュートン騎士団の支配を嫌い1440年に自治領連合であるプロシア連合に加盟。以後ポーランド王の庇護を受け、1466年にはポーランド王領プロイセンの都市として発展、1569年にはポーランド王国に正式加盟。1772年ポーランド分割によりプロイセン王国領、のちドイツ帝国領となり、第二次世界大戦後はポーランドに復帰。16世紀、コペルニクス司教座聖堂参事会員としてこの街に赴任し、1543年には地動説で有名な『天球の回転について』を出版。コペルニクスはこの街で没し、大聖堂内に葬られた。第二次世界大戦ではドイツ軍とソ連軍との戦闘により市街地の70%が破壊された。1966年から1973年にかけて、ポーランドのボーイスカウトが中心となって旧市街や教会群を再建し、コペルニクスの生誕500年を祝った。現在は有名な観光地となっており、春から秋にかけてのシーズンは観光客でにぎわう。2005年、大聖堂内でコペルニクスの墓所が発見され(それまでどこにあるかわからなくなっていた)、2008年にこの遺骨がコペルニクスのものと確認された[4]。コペルニクスが埋葬されている大聖堂(Katedra)をはじめとした教会群やコペルニクス博物館(本館は司教の旧館)[5]が見どころ。観光シーズンにはエルブロンク(上記「エルブロンク」参照)、クリュィニツァ・モルスカ(Krynica Morska)、カリーニングラードとの間でフェリーが運航されている。街の公式サイト(英語・ポーランド語・ドイツ語)あり[6]

グルンヴァルト

ンヴァルト(Grunwald)では1410年7月15日ステンバルク村との間にある草原でポーランド・リトアニア連合国軍とチュートン騎士団軍が中世最大の決戦を行い、ポーランド・リトアニア連合国軍が大勝した。これを「グルンヴァルトの戦い」という(ドイツ人はステンバルク村のドイツ語名から「タンネンベルクの戦い」と呼ぶ)[7]。この戦いによってチュートン騎士団はポーランド王国従属国となり、一方ポーランド・リトアニア連合はこれによって黄金時代を迎えることになった。この戦場跡は現在でも草原のまま保存され、記念碑がある。毎年7月にはグルンヴァルトの戦いを記念する祭典が戦場跡で開かれており、ヨーロッパ中から騎士に扮した歴史ファンが多数集まってこの戦いを再現[8]、内外から毎年10万人を超える観客を集める非常に大きな夏祭りとなっている。

ミコワイキ

ミコイキはマズールィ湖水地方(Pojezierze Mazurskie)にある、教会を中心とする街。元プロイセン王国領(ドイツ名ニコライケンNikolaiken)。ポーランド最大の湖シニャルドヴィ湖のほとりにある。近年はその自然景観を生かしてリゾートタウンとして発展している。公式サイト(英語・ポーランド語・ドイツ語)あり[9]

ムロンゴヴォ

ムロンヴォ(Mrągowo)はマズールィ湖水地方(Pojezierze Mazurskie)にある街。元プロイセン王国領の村ゼンスブルクSensburg(ポーランド名ジョンヂボルクŻądźbork)だったが、ポツダム会談によって第二次世界大戦後にドイツ領からポーランド領となり、ドイツ人牧師クリストフ・ケレスティン・ムロンゴヴィウス(Christoph Cölestin Mrongovius)にちなんで「ムロンゴヴォ」と改称。近年はその自然景観を生かしてリゾートタウンとして発展している。1983年より毎年夏に開かれている「ピクニック・カントリー・ムロンゴヴォ(Piknik Country Mrągowo)」というカントリー・ミュージックの祭典で有名。公式サイト(英語・ポーランド語・ロシア語・リトアニア語・フランス語・ドイツ語)あり[10]

オルシュティン

ルシュティン(Olsztyn)はヴァルミア=マズールィ県の県都。中世古プロシア人チュートン騎士団に征服されてからチュートン騎士団の支配の街アレンシュタイン(Allenstein)であったが、市民がチュートン騎士団による支配を嫌い1440年には自治領連合であるプロシア連合に加盟してポーランド王の庇護を受け、1466年よりポーランド王領プロイセンの都市として発展。1569年にはポーランド王国に正式加盟。1772年ポーランド分割によってプロイセン王国領となり、その後ドイツ帝国領を経て、第二次世界大戦後に再びポーランド領。旧市街やチュートン騎士団城などは第二次世界大戦でのナチス・ドイツ軍とソ連軍の激しい戦いで破壊され焼け落ちたが、戦後になってポーランド市民の手で修復・再建された。公式サイト(ポーランド語)あり[11]

オストルダ

オストダ(Ostróda)は湖畔にある、美しい景観を有する街。中世古プロシア人の街であったが、1270年チュートン騎士団が防塁を築き、古プロシア人征服の拠点とした。1410年グルンヴァルトの戦いでチュートン騎士団がポーランド・リトアニア連合軍に敗北すると、街は当時のポーランド国王ヴワディスワフ2世に献上された。その後再びチュートン騎士団が街を奪い返すが、十三年戦争で、ポーランド王国プロシア連合の連合軍とチュートン騎士団軍が街を奪い合い、1466年にポーランド王国が最終的勝利を収め以後ポーランド王国領となる。1701年にはポーランド王を君主とするポーランド王領プロイセンの一部となった。第二次世界大戦ではドイツ軍ソ連軍の激しい戦闘で市街地の70%以上が破壊された。戦後はポーランド領となり、街はリゾートタウンとして再建された。オストルダとエルブロンク(上記「エルブロンク」参照)との間には運河があり、遊覧船が運航している[12]。公式サイト(英語・ポーランド語・リトアニア語・ドイツ語)あり[13]

関連項目

外部リンク

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