ドイツ騎士団

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ドイツ騎士団(ドイツきしだん、テンプレート:Lang-de-short)とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会テンプレート:Lang-la-short)。英語では Teutonic Knights と呼ばれ、日本ではその訳語であるチュートン騎士団でも知られる。

本来は12世紀後半のパレスチナ聖地巡礼者の保護を目的として設立されたが、イスラム教徒に根拠地を奪われ、パレスチナを離れた。1226年バルト海南岸のクルムラントを異教徒から防衛するためにポーランド貴族に招聘され、後のプロイセン王国の建国に繋がる東方植民の先駆けとなった。テンプル騎士団聖ヨハネ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。

歴史

ドイツ騎士団の成り立ち

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チュートン騎士団のマントに描かれた十字章(黒十字の原型)

ドイツ騎士団の前身は、エルサレム王国アイユーブ朝の攻勢の前にパレスチナの領土を失いつつあった12世紀後半、第3回十字軍の一員としてパレスチナに赴いたドイツ出身の戦士たちを保護するため、ドイツ北部の港湾都市のブレーメンリューベックの貿易商が資金を提供してアッコンに設立したエルサレムのドイツ人の聖母マリア病院修道会である。病院を運営した兄弟団は1191年ローマ教皇クレメンス3世によって公認され、教皇庁の保護下に置かれたが、1198年騎士身分出身の騎士修道士を中心として聖堂騎士団を模範とし、総長を頂点とする騎士修道会に再編成された。1199年ローマ教皇インノケンティウス3世はドイツ騎士団を騎士修道会として公認した。

ドイツ騎士団はパレスチナのキリスト教勢力の後退とともに、活動の場をパレスチナに見出すことができなくなった。そこで、1210年に第4代騎士修道会総長になった騎士ヘルマン・フォン・ザルツァde)はハンガリーアンドラーシュ2世の招きに応じて翌1211年にハンガリー領に移り、同国王からトランシルヴァニア(現ルーマニア領)のプルツェンラントをドイツ騎士団の所領として付与され、周辺のクマン人に対する防衛を担った。これが後に、聖地の防衛者ではなく異教徒に対する尖兵としてのドイツ騎士団の性格を決定付けることになる。

ヘルマン・フォン・ザルツァは優れた政治家で、やがてハンガリー王国の従属から離れ、ドイツ騎士団の国を創り上げようとした。1224年、ザルツァはローマ教皇ホノリウス3世にプルツェンラントをハンガリー王国から切り離させ、教皇支配地とすることを要請し、教皇に教皇直轄領と宣言させることに成功した。しかしこの動きに立腹したアンドラーシュはローマ教皇の命令を無視し、1225年に騎士修道会をトランシルヴァニアから追放した。

バルト海南岸の異教徒の地

本拠地を再び失ったドイツ騎士団であったが、ドイツ騎士団の国を創り上げる3回目の試みは成功した。1225年の暮れ、ポーランドワルシャワ周辺を中心に勢力を持つマゾフシェ(マソヴィエン)公コンラート1世マゾヴィエツキに招かれ、バルト海南岸の異教徒からクルムラントの防衛を担うよう要請された。

ハンガリーでの失敗に懲りたザルツァは周到に準備を行い、神聖ローマ帝国フリードリヒ2世と交渉して、1226年のリミニ金印勅書で騎士団に「クルマーラントとプロイセンラントにおける領邦主権者」としての法的地位を認められた。これは異教徒の先住プロイセン人(独:Baltische Pruzzen, 英:Baltic Prussians)の土地を征服、領有する権利を保証するものである。1230年にはローマ教皇グレゴリウス9世から、異教徒たちを打ち倒すことが神の意に適い、罪を贖うことができる救済行為であるとして、武力によるキリスト教化を正当化する教勅を与えられ、満を持して先住プロイセン人の土地の征服に着手する。

騎士団は1237年にはラトヴィアの征服事業を進めていたリヴォニア帯剣騎士団を吸収した。しかし、エストニアの領有をめぐってデンマークと争うことになり、また東の正教国のノヴゴロド共和国との争いでは、1242年チュード湖の氷上の戦いでアレクサンドル・ネフスキー率いるノヴゴロドの軍に破られた。

騎士団は1283年まで50年以上を費やして徐々に征服地を広げ、原住民に異教の信仰を放棄させた。さらに征服した土地にドイツ人の農民が次々と入植し、ドイツ式の農村が建設された。この圧力の前に先住プロイセン人はドイツ人ポーランド人に同化し、民族語である古プロイセン語も消滅に向かう。プロイセンの東隣、ラトヴィアの南隣にあたるリトアニアではペイガニズムを奉じるリトアニア人の原リトアニアと東方正教会を奉じる東スラヴ人ルテニアの国家連合であるリトアニア大公国が出現し、ドイツ騎士団はこの異教徒の強国との間で恒常的な戦闘を続けることになる。

ドイツ騎士団国とポーランド王国

1224年、ドイツ騎士団は本拠地をマリエンブルク(現マルボルク)に置き、選挙で選ばれる総長を統領として選挙君主制国家ないし宗教的共和国とも言える統治体制のドイツ騎士団国を築いた。騎士団国家は14世紀には最盛期を迎え、騎士団の勃興と同じ時期に経済的に発展し始めた西ヨーロッパに穀物を輸出し、経済的にハンザ同盟都市と深く結びついていた。ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)、エルビンク(現エルブロンク)はドイツ騎士団の下で発展を遂げた貿易都市である。いずれも大河の河口に位置し、川沿いの穀物を集散して栄えた。

一方エルビンクとはライバル関係にあったダンツィヒ(現グダニスク)はドイツ騎士団による支配を極端に嫌悪し、ポーランドの庇護を望んでドイツ騎士団とは何世紀もの長い間抗争を繰り返すこととなった。また、実はエルビンクの住民もドイツ騎士団による支配を嫌がっていた。1410年にドイツ騎士団がタンネンベルクの戦いで敗北する(次項参照)とエルビンクは公にポーランド王国からの直接の庇護を求めるようになり、1440年にダンツィヒやエルビンクなどの20都市と領地つき僧侶53人はダンツィヒを盟主としてプロイセン連合を組織、ポーランド王国の準加盟組織となり、ポーランドとプロイセン連合がドイツ騎士団と戦った十三年戦争後の講和条約である1466年第二次トルンの和約を経て、1569年には正式にポーランド王国に加盟することになる。

ポーランド王国はポーランド王領プロシアにおける司祭の選定権をドイツ騎士団から剥奪したものの、ドイツ騎士団の主だった者たちにポーランド国会(セイム)における議席を提供し国政への参政権を与えたが、司祭の独自選定権にこだわった騎士団はセイムに代表を送ることを拒否し、1467年テンプレート:仮リンクが勃発した。この戦争も1479年にポーランドの圧勝によって終結。7月15日ピョトルクフの講和テンプレート:Lang-en)がピョートルクフで交わされ、王国は騎士団が1467年に選出していたニコラウス・フォン・チューンゲンをヴァルミア司教として認め、一方で騎士団はポーランドへの服属を再度誓った。しかし、戦闘はその後も継続した(pl:Egzempcja Warmii)。次のヴァルミア司教はニコラウス・コペルニクスの母方の叔父で幼いニコラウスの養父でもあったルーカス・ヴァッツェンローデであり、ヴァッツェンローデもグニェズノ大司教座の下に入ることを拒否して王国側と少々揉めたものの、政治的には王国の権威を認めることでこれは大した騒動には至らなかった。

騎士団国家の終焉

14世紀後半に入ると、騎士団の専権的な支配は在地勢力や都市、地方領主などの反感を買うようになり、彼らはポーランド諸公国が統一されて誕生したポーランド王国を頼るようになった。ポーランド王国もまた騎士団が神聖ローマ皇帝の権威を後ろ盾にポーランド国王の権威を蔑ろにし、ポーランド北部のクヤーヴィポモージェドブジュンの諸地方を横領し、マゾフシェにも触手を伸ばしている状況に対して敵対心を募らせていた。バルト海沿岸には居城のマリエンブルク城(マルボルク城)がある。

ファイル:Ulrich von Jungingen.PNG
ポーランド・リトアニア軍の農民歩兵が騎士団総長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲンを討つ場面
ヤン・マテイコ画「グルンヴァルトの戦い」(ポーランド国立博物館、ワルシャワ)の一部

折りしも1382年に、ハンガリー王とポーランド王を兼ねたラヨシュ1世(ルドヴィク1世)が没し、9歳の娘ヤドヴィガがポーランド女王となると、その夫としてリトアニア大公ヨガイラに白羽の矢が立った。1385年ヨガイラはキリスト教に改宗、ヤドヴィガと結婚し、ポーランド王ヴワディスワフ2世として即位した。これによって38歳の国王と12歳の女王の「夫婦」がポーランド王国の共同君主として君臨することになった。リトアニアの改宗により、バルト海南岸のキリスト教化をもって存在理念としてきた騎士団国家は存立の危機となった。1410年には、騎士団はヴワディスワフ2世率いるヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合王国とのタンネンベルクの戦いに大敗を喫し、西プロイセンを失った。

15世紀のドイツ騎士団は、強大なポーランド・リトアニア連合の脅威に晒される。騎士団は復権に向けて様々な努力を行うが、ポーランドによってただ圧倒されるばかりであった。騎士団領の商業都市はポーランド王国から直接の庇護を得ることによって騎士団からの独立自治権を獲得していた。ポーランド王国の庇護を得たこれら騎士団領内自治都市の互助組織をプロイセン連合という。1466年第二次トルニの和約により、騎士団は大都市ダンツィヒや首都マリエンブルクを含む東ポモージェをポーランドに割譲し、残る領土はわずかにケーニヒスベルクを中心とする東プロイセンのみとなった。しかも、東プロイセンもポーランド王の宗主権の及ぶ地域と定められ、騎士団総長はポーランド王と封建関係を結ぶ臣下となった。これによってプロイセン連合はドイツ騎士団に対抗するという役割を終えたため解散した。

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ポーランド王ジグムント1世に臣従の誓いを行うアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(アルブレヒト・ホーエンツォレルン)
ポーランド王国属国「プロイセン公国」の成立(1525年)
ドイツ騎士団国家の終焉
ジグムント1世王の脇には緋色の正装を纏うまだ5歳の王太子ジグムント(後のジグムント2世王)が立つ
王太子の手前には有名な宮廷道化師スタンチクが座っている
スタンチクは、ポーランドの未来のためにはプロイセン公領(プロイセン公国)を無慈悲に潰しポーランド王国の直轄領とすべきだと考えていた
実際、スタンチクがアルブレヒトの臣従の誓いをジグムント王が受け入れることに強く反対していたことは実際に当時の記録のうちに見られる
スタンチクはこの絵の中ではこれみよがしに首をかしげている
ポーランド社会の行き過ぎた寛容性に対するこのスタンチクの懸念は数世紀後に現実化することになる

1510年に総長に選ばれたアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(Albrecht von Brandenburg)は1523年マルティン・ルターと面会して感銘を受け、同調する騎士団員とともに騎士団を離れてルター派に改宗、ドイツ騎士団と対立したうえでこれをプロイセンから追い出した。こうしてカトリック教会の騎士修道会国家は歴史的な役割を終えた。

アルブレヒトは1525年ポーランド王ジグムント1世に改めて臣従の誓いをしてポーランド王の臣下となり、アルブレヒトの配下の者の所領はすべてポーランド王国の宗主権下に入り、ホーエンツォレルン家を世襲の公とする世俗の領邦であるプロイセン公国に変わる。これ以降ドイツ騎士団はプロイセンの国家運営とはいっさい無縁となる。

その後、アルブレヒトの血統が絶えると、同族のブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントが公位を相続し、以降ブランデンブルク選帝侯の飛び地領土となる。プロイセンは神聖ローマ帝国の域外であったことから、後に王号の使用が認められてプロイセン王国となった。

騎士団国家の消滅後も、アルブレヒトに追い出されたドイツ騎士団自体はドイツ南部に持つ封土を中心に、カトリック教徒のドイツ人によって維持され、ヴュルテンベルク地方で主にハプスブルク家の成員を総長として続いた。その後、騎士団は1809年に世俗的な領土をすべて失い、第一次世界大戦でハプスブルク家の後援が断たれたが、騎士団は一種の慈善団体となり、現在も存続している。

歴代ドイツ騎士団総長

  1. ハインリヒ・ワルポット・バッセンハイム(1198年 - 1200年
  2. オットー・フォンケルペン(1200年 - 1209年
  3. ハインリヒ・バルト(1209年 - 1210年
  4. ヘルマン・フォン・ザルツァ1210年 - 1239年
  5. コンラート・フォン・テューリンゲン1239年 - 1240年
  6. ゲルハルト・フォン・マールベルク(1240年 - 1244年
  7. ハインリヒ・フォン・ホーヘンローエ(1244年 - 1249年
  8. グンター・フォン・テューリンゲン(1249年 - 1252年
  9. ボッホ・フォン・オステルナ(1252年 - 1256年
  10. アンノ・フォン・ザンガースハウゼン(1256年 - 1273年
  11. ハルトマン・フォン・ヘルドルンゲン(1273年 - 1283年
  12. ブルヒャルド・フォン・シュヴァンデン(1283年 - 1291年
  13. コンラート・フォン・フォイヒトヴァンゲン(1291年 - 1297年
  14. ゴットフリート・フォン・ホーエンローエ(1297年 - 1303年
  15. ジークフリート・フォン・フォイヒトヴァンゲン(1303年 - 1311年
  16. カール・フォン・トリアー(1311年 - 1324年
  17. ヴェルナー・フォン・オルセルン(1324年 - 1331年
  18. ルター・フォン・ブラウンシュヴァイク(1331年 - 1335年
  19. ディートリッヒ・フォン・アルテンブルク(1335年 - 1342年
  20. ルードルフ・ケーニヒ・フォン・ヴァイツァウ(1342年 - 1345年
  21. ハインリヒ・デューゼマー・フォン・アルフベルク(1345年 - 1352年
  22. ヴィンリッヒ・フォン・クニップローデ(1352年 - 1382年
  23. コンラート・ツェルナー・フォン・ローテンシュタイン(1382年 - 1391年
  24. コンラート・フォン・ヴァレンロード(1391年 - 1393年
  25. コンラート・フォン・ユンギンゲン(1393年 - 1407年
  26. ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン(1407年 - 1410年
  27. ハインリヒ・フォン・プラウエン(1410年 - 1414年
  28. ミヒャエル・キュヒマイスター・フォン・シュテルンベルク(1414年 - 1422年
  29. パウル・フォン・ルスドルフ(1422年 - 1441年
  30. コンラート・フォン・エルリックスハウゼン(1441年 - 1450年
  31. ルートヴィッヒ・フォン・エルリックスハウゼン(1450年 - 1469年
  32. ハインリヒ・ロイス・フォン・プラウエン(1469年 - 1470年
  33. ハインリヒ・レフレ・フォン・リヒテンベルク(1470年 - 1477年
  34. マルチン・トルホゼス・フォン・ヴェッツハウゼン(1477年 - 1489年
  35. ヨーハン・フォン・ティーフェン(1489年 - 1498年
  36. フリードリヒ・レフレ・フォン・ザクセン(1498年 - 1511年
  37. アルプレヒト・フォン・ブランデンブルク1511年 - 1525年
    プロイセン公1525年 - 1568年
  38. ヴァルター・フォン・クロンベルク(1527年 - 1543年)
  39. ヴォルフガング・シュッツバール(1543年 - 1566年)
  40. ゲオルク・フント・フォン・ヴェンクハイム(1566年 - 1572年)
  41. ハインリヒ・フォン・ボーベンハウゼン(1572年 - 1590/95年)
  42. マクシミリアン・フォン・エスターライヒ(1590/95年 - 1618年)
  43. カール・フォン・エスターライヒ(1618年 - 1624年)
  44. ヨーハン・オイスタッハ・フォン・ヴェスターナッハ(1625年 - 1627年)
  45. ヨーハン・カスパール・フォン・シュターディオン(1627年 - 1641年)
  46. レオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ(1641年 - 1662年)
  47. カール・ヨーゼフ・フォン・エスターライヒ(1662年 - 1664年)
  48. ヨーハン・カスパール・フォン・アンプリンゲン(1664年 - 1684年)
  49. ルートヴィヒ・アントン・フォン・デア・プファルツ(1684年 - 1694年)
  50. フランツ・ルートヴィヒ・フォン・デア・プファルツ(1694年 - 1732年)
  51. クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルン(1732年 - 1761年)
  52. カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン(1761年 - 1780年)
  53. マクシミリアン・フランツ・フォン・エスターライヒ(1780年 - 1801年)
  54. カール・フォン・エスターライヒ=テシェン(1801年 - 1804年)
  55. アントン・ヴィクトル・フォン・エスターライヒ(1804年 - 1835年)
  56. マクシミリアン・ヨーゼフ・フォン・エスターライヒ=エステ(1835年 - 1863年)
  57. ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ(1863年 - 1894年)
  58. オイゲン・フォン・エスターライヒ(1894年 - 1923年)
  59. ノルベルト・クライン(1923年 - 1933年)
  60. パウル・ハイダー(1933年 - 1936年)
  61. ロベルト・シェルツキー(1936年 - 1948年)
  62. マリアン・トゥムラー(1948年 - 1970年)
  63. イルデフォンス・パウラー(1970年 - 1988年)
  64. アルノルト・オトマル・ヴィーラント(1988年 - 2000年)
  65. ブルーノ・プラッター(2000年 - )

参考文献

  • Jacques Ancel著、山本俊朗訳 『スラブとゲルマン・東欧民族抗争史』 弘文堂、1965年
  • 阿部謹也 『ドイツ中世後期の世界・ドイツ騎士修道会史の研究』 筑摩書房、2000年、ISBN 4-480-75160-2

小説

  • 純丘曜彰 『死体は血を流さない:聖堂騎士団vs救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』、三交社、2009年

関連項目

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外部リンク


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