東プロイセン

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1881年の東プロイセン地図

東プロイセン(ひがしプロイセン、テンプレート:Lang-de; テンプレート:Lang-pl; テンプレート:Lang-ru)は、ヨーロッパバルト海の南岸にある地域の歴史的な地名。東プロシア、あるいはオストプロイセンとしても知られている。現在は大部分がポーランドロシア、北端の一部分がリトアニアの統治下にある。

歴史

ドイツ騎士団

元々バルト系のプルーセン人が住み、古プロイセン語が話されていた。1226年に始まるドイツ騎士団の武力による宣教(カトリック化)とドイツ人東方植民によりドイツ系住民が増大していき、ポーランドリトアニアからも移住者が増え、それらの人々が原住民と混血してバルト・ドイツ人が生まれていった。プレーゲル川の河口の港町ケーニヒスベルクハンザ同盟都市)は、琥珀など流域の物資を集散しバルト海を通じて交易するこの地域の中心都市として繁栄していた。

ドイツ騎士団マリエンブルクの町に建てられたマリエンブルク城に本拠を構えたが、在地の貴族農民達はしばしばドイツ騎士団の支配に対して反乱を起こした。バルト・ドイツ人の諸都市もドイツ騎士団の専制支配に強い不満を抱いていた。ドイツ騎士団との間でたびたび紛争が起こったポーランド王国リトアニアでもドイツ騎士団に対抗すべく(リトアニアがキリスト教を受け入れてリトアニア大公国となることで)ポーランド=リトアニア連合が誕生した。リトアニア大公国の大公ヤギェウォがポーランド王国の女王ヤドヴィガと結婚し、この二人が夫妻共同君主となってポーランド王国を治めることになった。

ポーランド王領プロシア

1410年グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)に続く15世紀前半の戦争を経てドイツ騎士団国家は弱体化した。1440年には都市、諸侯、(ドイツ騎士団に属さない)僧侶がドイツ騎士団に反発してプロイセン連合を結成しポーランド王国と同盟した。1466年の和睦(第二次トルンの和約)でドイツ騎士団は西プロイセンをポーランドに譲り、東プロイセンはポーランド国王の宗主権下に入りポーランド王領プロシア1466年 - 1772年)となった。プロイセン連合加盟の諸都市や諸侯の自治権が勝利者のポーランド王国によって保障された。

1525年、騎士修道会総長でホーエンツォレルン家アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクプロテスタントに改宗し、世俗の「プロイセン公」となってドイツ騎士団国の東プロイセンにプロイセン公国を創設した。1558年イヴァン4世リヴォニア戦争を起こす。1561年テッラ・マリアナが分割され、プロイセン公国の影響下から離脱。1618年にプロイセン公の後継者が絶えると、ブランデンブルクを領地とする同族のブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムント(在位1608-1619)がプロイセン公を兼ねる同君連合体制となり、ポーランド国王の宗主権下に東プロイセンを統治した。この頃からスウェーデンバルト海に勢力を伸張し、東プロイセンにも影響を与え、1626年には、スウェーデン王グスタフ2世アドルフによって一時制圧された。

プロイセン王国

1660年には、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯が東プロイセンをポーランド国王の宗主権から解放し、1680年までにスウェーデンの影響力を完全に排除した。そして1701年、大選帝侯の子ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はケーニヒスベルクに赴き、フリードリヒ1世としてプロイセン王に即位、プロイセン公国は「プロイセン王国」となった。ホーエンツォレルン家の主な領土はベルリンを中心としたブランデンブルク選帝侯領であったが、飛び地の東プロイセンは名目上神聖ローマ帝国の範囲外であり、ここでなら皇帝の臣下である選帝侯フリードリヒ3世も王となることができたのである。1701年にプロイセン王国がテンプレート:仮リンクを併合。en:Great Northern War plague outbreak1709年 - 1711年)で人口の1/3が死亡した。1727年ザルツブルク大司教テンプレート:仮リンク(在位:1727年 - 1744年)が凄惨な新教徒迫害(de:Salzburger Exulanten)を実施し、追放された新教徒を東プロイセンが受け入れた。1772年プロイセン王フリードリヒ2世(大王)はポーランド分割でにおいて、西プロイセンを併呑してブランデンブルクと東プロイセンが地続きとなり飛び地を解消すると、翌年テンプレート:仮リンク1773年1829年)と西プロイセン州に変更した。また、カトリック人口の多いポーランド王領プロシアの属領ヴァルミアがプロイセン王国に併合された。

1806年ナポレオンは、第三次対仏大同盟に勝利してオーストリア帝国プレスブルクの和約を締結し、神聖ローマ帝国が崩壊して親仏のライン同盟が結成された。中立の立場をとっていたプロイセン王国は、北ドイツからドイツ各地に勢力を広げ始め、ブランデンブルクは1806年テンプレート:仮リンクとなった。ポメラニアは、1814年キール条約デンマーク=ノルウェーを解体したスウェーデンノルウェーを獲得する引き替えに代償として譲渡する事とされていたが、ウィーン会議1814年 - 1815年)でプロイセン王国に割譲された。1829年、東プロイセン州と西プロイセン州が合併しテンプレート:仮リンク1829年 - 1878年)となった。1866年普墺戦争にプロイセン王国が勝利し、オーストリア帝国を盟主とするドイツ連邦1815年 - 1866年)が解体され、1867年北ドイツ連邦1867年 - 1871年)が成立。

ドイツ帝国

1871年1月18日にはついにプロイセン王がドイツ皇帝に即位し、バイエルン王国を独立した邦領として加えドイツ帝国1871年 - 1918年)が誕生する。普仏戦争1870年7月19日 - 1871年5月10日)でプロイセンがフランス帝国に勝利。1878年4月1日、プロイセン州は東プロイセン州(1878年1945年)と西プロイセン州に再び分離された。1888年ヴィルヘルム2世が即位するとビスマルクを更迭して親政を開始し、帝国主義政策を実行した。その結果、周辺国との軋轢を生んでビスマルク体制を破綻させ、第一次世界大戦に突入した。第一次世界大戦初期において侵攻してきたロシア軍に対しドイツ軍がタンネンベルクの戦いで勝利した。

ヴァイマル共和国

戦間期には、ヴェルサイユ条約により西プロイセン及びポメラニア(ポーランド回廊)がポーランドへ割譲され、東プロイセンはまた飛地となる。1918年ヴァイマル共和国1919年1933年)の下ではプロイセン自由州1918年1935年)となった。1932年フランツ・フォン・パーペンによるテンプレート:仮リンクは、戦間期の終焉をもたらし、1933年のヒトラー内閣による政権奪取に繋がった。

ドイツ帝国(ナチス・ドイツ)

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ポーランドのマズルィ地方
オルシュティン(アレンシュタイン)旧市街
第二次世界大戦後にポーランド市民によって修復・再建された
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ポーランドのオルシュティン(アレンシュタイン)
第二次世界大戦後にポーランド市民の手で修復された「ドイツ騎士団のアレンシュタイン城」

ナチス・ドイツはポーランドにポーランド回廊の割譲を要求し、ポーランド側が拒否すれば軍事的手段に出ると述べた。この要求を呑めばバルト海への出口を断たれるポーランドはヒトラーの要求を拒否した。1939年ナチス・ドイツは旧ドイツ帝国領の北辺の地、いったん国際管理となり隣国リトアニア領になっていたメーメル地域を東プロイセンに併合。同年、ポーランドがポーランド回廊の割譲要求に応じないことを名目に宣戦布告のないままポーランドに侵攻した。この際に東プロイセンはドイツ軍の出撃基地となった。ポーランド侵攻の結果、ドイツは西プロイセンを実効支配し、東プロイセンは再びドイツ本土と地続きになった。東プロイセンを含むすべてのナチス・ドイツ占領地域に住んでいたポーランド人住民(正確にはナチス・ドイツの法令で「ポーランド人」と認定された者)はポーランド総督府と名づけられた東部の狭い地域にすべて追放された。独ソ戦開始とともに東プロイセンのラステンブルク郊外に「総統大本営」(いわゆる「狼の砦」)が置かれ、ヒトラーは東部戦線に近いここから軍隊を指揮した。ベルリンへ向かうソ連赤軍東プロイセン攻勢を行った1945年1月から4月の間に、迫り来る赤軍を恐れて東プロイセンの住民260万人(1939年時点)のうち200万人以上がドイツ西部に逃れ(en:Evacuation of East Prussia)、残った人々も戦後シベリアに送られるかオーデル・ナイセ線の西側に追放された(ドイツ人追放)。

東プロイセン分割

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カリーニングラード大聖堂(ケーニヒスベルク大聖堂を最近再建したもの)

第二次世界大戦後、ケーニヒスベルクカリーニングラードと改称)を含む北半分はソヴィエト連邦カリーニングラード州)に、南半分はポーランドヴァルミア県マズルィ県)に分割併合され、東プロイセンという地名は消滅した。旧東プロイセンの主要都市は第二次世界大戦でほとんどが激しく破壊されたが、その後の経緯はソ連側とポーランド側で大きく異なる。カリーニングラード州の諸都市はソ連の政策によりファシスト帝国主義者の遺物だとされ、ケーニヒスベルク城をはじめとして多くの歴史的建造物が撤去されてしまった。ポーランド側ではポーランドの政府と市民が協力し、戦後の時代を通じて歴史的建造物や街並みを次々と調査して再建し、その多くが中世の姿を取り戻した。現在カリーニングラード州はロシア共和国の州、ポーランドのヴァルミア県とマズルィ県は自治体合併によりヴァルミア=マズルィ県となっている。カリーニングラード州は1990年代終わりごろからロシア共和国随一の産業地帯として繁栄している。近年は、ケーニヒスベルク大聖堂などといった一部の歴史的建造物の再建が少しずつ行われている。ポーランドのヴァルミァ=マズルィ県は自然と古い街並みが調和する風光明媚なリゾート地の多い地方として内外の観光客が多数訪れ、ドイツ人もやってきてはバカンスを楽しんでいる。初夏から夏にかけてはグルンヴァルトの古戦場跡(タンネンベルクの戦い (1410年)タンネンベルクの戦い (1914年))やマルボルク城で壮大な歴史祭りが開催され、ポーランドやドイツをはじめとしたヨーロッパ各地から集まったたくさんの人々が騎士や歩兵に扮して昔の戦いを再現する。

参考文献

外部リンク

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