鹿内春雄
テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox 人物 鹿内 春雄(しかない はるお、1945年5月15日 - 1988年4月16日)は、日本の実業家。
フジサンケイグループ初代議長鹿内信隆の長男であり、それを継いで2代目議長を務めた。当時の愛称も、「議長」だった。
来歴・人物
北海道夕張郡由仁町に父・鹿内信隆、母・英子の長男として生まれる。出生名は両親の名から一字ずつとった、「信英(のぶひで)」で、幼少期はやや病弱だった。母・英子は祈祷師への強い信心を抱くようになり、依存する状態が長く続き、1960年12月には“春雄”と改名した。改名がどのような意図でおこなわれたのか、信隆がどう対応したかはいまひとつ判然としない[1]。春雄は小学生の時分から母子ともども祈祷を受け、祈祷師に「病の原因を体内から吸い出してもらう」のを習いとするようになった[2]。
エスカレータ式に慶應義塾高等学校に進学したもののやがて学業成績は低迷の度を増し、二年時に落第が必至となる。アメリカへ留学、ボストン大学に入学するも中退する[3]。
帰国後、経団連の植村甲午郎会長の秘書を経て、1970年に信隆が社長だったニッポン放送に入社。1977年6月にニッポン放送副社長、同年7月には産経新聞社取締役に就任。1980年6月にフジテレビ代表取締役副社長、1985年6月フジテレビ、産経新聞社、ニッポン放送の3社の会長になり、フジサンケイグループ議長に就任。1985年に「FCG構想」を発表し、フジサンケイグループの統一シンボル『目玉マーク』の制定、テレビ放送の高品位化、産経新聞の紙面カラー化とタイトル刷新などメディア改革を行う。
父・信隆が進めた「正論」路線は継承するものの、「行革」キャンペーンは社会的に不人気と見るや路線変更し、代わって「夢工場」や映画『ビルマの竪琴』『南極物語』など大衆に夢を売るキャンペーンに奔走した。
これから遡る1970年には、信隆が番組制作部門を日枝久などが旗揚げした労働組合潰しのためフジテレビから切り離していた。制作部門に組合員が多く彼らは地方や関連会社に左遷され、現場は活気が無くなり視聴率は落ち込み低迷した。このとき組合書記長だった日枝久や横澤彪など、のちのフジテレビを支える実力者も例外なく左遷させられた。
そんな父の姿を見てきた春雄は、父の反対を押し切り著名な放送作家などをブレーンにして機構改革を断行し外部委託だった制作部門を左遷させた社員とともに、フジテレビ編成局の下に戻し「編成主導」の番組制作を行った。当時編成と制作を融合させた機構改革は斬新的でその後、各局がその方法を取り入れるようになった。また組合員の復権も行い、実力があれば重用する人事も行った。その後の躍進に功績があった人物を後継者におき、日枝久も40代であったが役員に抜擢した。
こうした実力主義による改革は、フジサンケイグループ内では制作部門を中心に強力な支持を受け、フジサンケイグループは父・信隆による硬派路線を脱却して「軽チャー路線」とも呼ばれる黄金期を迎えることになる[3]。
1988年4月16日、肝炎の発症等により42歳で急死。妹・厚子による『厚子手記』によれば、「兄があんなに早く亡くなったのも、母の信仰がその理由の一つなのではないかと思っています。兄は亡くなる八年前にB型肝炎を患っていました。…ところが母は、西洋医学や病院を信じないので一切見せない。…N先生の作る漢方薬しか与えないのです。病院につれていって、しっかりした医療処置さえとっていれば、兄があんなに早く亡くなることはなかったのではないかと私には思えてならないのです」という[4]。
春雄の死去後、信隆は娘婿で春雄の義弟・鹿内宏明(当時佐藤)と養子縁組し、産経新聞社・フジテレビ・ニッポン放送などグループの代表取締役会長職を引き継がせた。
春雄のフジテレビ副社長・会長時代に放送開始した番組としては『森田一義アワー 笑っていいとも!』(1982年)、『FNNスーパータイム』(1984年)、『ライオンのいただきます』(1984年)、『夕やけニャンニャン』(1985年)、『所さんのただものではない!』(1985年)、『FNNモーニングコール』(1986年)、『FNN DATE LINE』(1987年)、『FNNスピーク』(1987年)、『タイム3』(1988年)などが挙げられる。
また、1987年からスタートした『FNSの日』(『FNSスーパースペシャルテレビ夢列島』→『平成教育テレビ』を経て現在は『27時間テレビ』)の初代製作総指揮でもある。
家族
美津子との結婚以前に2度結婚歴がある。ニッポン放送時代の1970年に知人の紹介で結婚した1人目の妻との間には長女が生まれたが、妻は母・英子と折り合いが悪く破局、夫婦間で子供の奪い合いとなり、1975年には子供を奪い返しに来た妻を車で引きずるという傷害事件を起こしている。5年半の調停を経て1981年に離婚、その直後の再婚した2人目の妻(元平尾昌晃夫人。平尾とは短大時代に結婚・1児をもうけるも3年で離婚)との間に長男が生まれたが、1982年にくも膜下出血を発症し死別している。
製作映画
- 1985年4月27日 - 『CHECKERS IN TAN TAN たぬき』
- 1985年7月13日 - 『Dr.スランプ アラレちゃん ほよよ!夢の都メカポリス』
- 1985年7月20日 - 『ビルマの竪琴』
- 1985年12月21日 - 『ゲゲゲの鬼太郎』
- 1986年3月15日 - 『ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大戦争』
- 1986年7月12日 - 『ゲゲゲの鬼太郎 最強妖怪軍団!日本上陸!!』
- 1986年7月12日 - 『子猫物語』
- 1986年10月10日 - 『時計 Adieu l'Hiver』
- 1986年12月20日 - 『ゲゲゲの鬼太郎 激突!!異次元妖怪の大反乱』
- 1986年12月20日 - 『ドラゴンボール 神龍の伝説』
- 1987年4月11日 - 『いとしのエリー』
- 1987年8月29日 - 『ハワイアン・ドリーム』
- 1987年7月18日 - 『ドラゴンボール 魔神城のねむり姫』
- 1987年9月26日 - 『竹取物語』
- 1987年10月24日 - 『光る女』
- 1987年11月21日 - 『永遠の1/2』
- 1987年11月21日 - 『私をスキーに連れてって』
脚注
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