小柴昌俊
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小柴 昌俊(こしば まさとし、1926年(大正15年)9月19日 - )は、日本の物理学者。1987年、自らが設計を指導・監督したカミオカンデによって史上初めて自然に発生したニュートリノの観測に成功したことにより、2002年にノーベル物理学賞を受賞した。日本学士院会員。
学位は、ロチェスター大学Ph.D.、東京大学理学博士。称号は日本学術会議栄誉会員、東京大学特別栄誉教授・東京大学名誉教授、明治大学名誉博士、東京都名誉都民、杉並区名誉区民、横須賀市名誉市民、杉並区立桃井第五小学校名誉校長。勲等は勲一等旭日大綬章、文化勲章受章。
経歴
- 1926年9月19日 - 愛知県豊橋市に千葉県館山市出身の父親である陸軍歩兵大佐小柴俊男と千葉県木更津市の農家の末娘の母親の子として生まれる。
- 1927年 - 1歳の頃、東京の西大久保に転居
- 1933年 - 新宿区立大久保小学校入学
- 1939年 - 神奈川県立横須賀中学校(現・神奈川県立横須賀高等学校)1年生のときに小児麻痺に罹患する
- 1944年3月 - 同中学校卒業
- 1944年4月 - 東京明治工業専門学校(現・明治大学理工学部)に入学
- 1945年4月 - 旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部)入学
- 1948年4月 - 東京大学理学部物理学科に入学
- 1951年3月 - 東京大学物理学科を卒業
- 1951年4月 - 東京大学大学院理学系研究科に入学 研究テーマは「原子核乾板による素粒子実験学」
- 1953年9月 - 米国ロチェスター大学に留学
- 1955年6月 - ロチェスター大学でPh.D.を取得し、シカゴ大学研究員に就任
- 1959年 - 一時帰国し慶子と結婚(媒酌は朝永振一郎夫妻)し再び渡米 後に1男1女を儲ける
- 1962年 - アメリカから帰国し、東京大学原子核研究所助教授に就任
- 1963年 - 東京大学理学部物理学科助教授に就任
- 1967年 - 東京大学理学博士 論文の題は「超高エネルギー現象の統一的解釈」
- 1970年3月 - 東京大学理学部教授に就任
- 1974年 - 東京大学理学部内に高エネルギー物理学実験施設(現東京大学素粒子物理国際研究センター)を設立、施設長・センター長を務める
- 1979年 - 陽子崩壊の検出を主目的に岐阜県神岡鉱山跡に「カミオカンデ」の建設を開始
- 1983年 - 「カミオカンデ」が完成し観測を開始
- 1987年2月23日 - 午前7時35分35秒(協定世界時)から大マゼラン星雲内で起きた超新星 SN1987A からのニュートリノを「カミオカンデ」が検出
- 1987年4月1日 - 東京大学を定年退職
- 1987年5月 - 東京大学名誉教授
- 1987年8月 - 東海大学理学部教授に就任
- 1997年3月 - 東海大学を退職
- 2003年 - 平成基礎科学財団 を設立し理事長に就任
その他役職
- 財団法人高エネルギー加速器科学研究奨励会評議員
- 財団法人日本宇宙少年団顧問
- 社団法人国際経済政策調査会理事
- 財団法人高松宮妃癌研究基金評議員
- 財団法人関信越音楽協会理事
受賞歴
- 1985年 - ドイツ電子シンクロトロン研究所 (DESY) における国際共同研究の業績によりドイツ連邦共和国から「ドイツ大功労十字章」を受賞。
- 1987年 - 『超新星爆発に伴うニュートリノの検出』により、戸塚洋二(東京大学理学部)、須田英博(東京大学宇宙線研究所)と共に仁科記念賞受賞。また、同業績に対し、「神岡観測グループ(代表者小柴昌俊)」に朝日賞が授与される。
- 1997年 - フンボルト賞受賞、文化勲章受章。
- 2000年 - レイモンド・デイヴィスと共にウォルフ賞(物理学)を受賞。
- 2002年 - 「天体物理学とくに宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献」により、レイモンド・デイヴィスと共にノーベル物理学賞を受賞。ニュートリノ天文学という新しい学問分野を開拓した。
- 2002年、杉並区名誉区民称号受領、明治大学名誉博士の名誉学位受領[1]。
- 2003年 - レイモンド・デイヴィスと共にベンジャミン・フランクリン・メダルを受賞。
- 2003年 - 勲一等旭日大綬章受章。東京都名誉都民称号受領。
- 2005年 - 東京大学から特別栄誉教授の終身称号を授与される。
小柴賞
財団法人高エネルギー加速器科学研究会では、小柴の業績を記念してその「奨励賞」に2003年度から「小柴賞」を設けた。
人物
旧制第一高等学校時代は落ちこぼれで成績が悪かった。旧制高校の風呂場裏で(当時の旧制高校は全寮制)「小柴は成績が悪いから(東大へ進学しても)インド哲学科くらいしか入れない」と話す教師の雑談を聞いてしまい一念発起、寮の同室の同級生(朽津耕三(現・東京大学化学科名誉教授))を家庭教師に物理の猛勉強を始め東大物理学科へ入学した。小柴が「やれば、できる」と言う由縁は自らの体験から生まれたものである。
自らを「変人学者」「東大物理学科をビリで卒業した落ちこぼれ」と称し、「現場主義の研究者」としての立場を貫いている。東京大学卒業時の成績証明書を公開したことがあり、16教科のうち「優」は2(物理学実験第1と第2のみ)、「良」は10、「可」は4(原子物理学ほか)であった。また、後進の教育・指導にも当たり、「私の研究を受け継いだ者の中からノーベル賞を受賞する研究を成し遂げる者があと2人は出るであろう」と発言した。実際にも彼の愛弟子の一人であった戸塚洋二はノーベル物理学賞の有力候補として注目されていたが、残念なことに戸塚は受賞が実現する前に66歳で亡くなった。
東大物理学科でも成績は悪かったが朝永振一郎に推薦状を書いて貰い、フルブライト奨学生としてアメリカ合衆国・ロチェスター大学博士課程へ留学。ロチェスター大学では留学生手当てが少なく生活が苦しかったが、博士号 (Ph.D.) を取得し博士研究員として大学に在籍すると給与が倍増されると聞き、1年8ヵ月で博士号を取得した。1年8ヵ月での博士号取得はロチェスター大学での最短記録であり、この記録は現在でも破られていない。
大学院生時代に、当時、神奈川県横須賀市にあった栄光学園にて物理の臨時講師を担当した。「この世に摩擦がなければどうなるのか」との質問を生徒に出題。摩擦がないと鉛筆の先が滑って答案は書けない、それ故に正答は「白紙答案」。解答を記入すると不正解になる難問を出題した[2]。
その他・エピソード
アメリカでの研究生活が長く、アメリカと日本の大学環境について「アメリカでは偉い先生が間違ったことを言っても、それはおかしいと言える環境がある。しかし日本では偉い先生が間違ったこと言っても、学生は萎縮してしまい何も言えない」と答えている。
東京大学本郷キャンパスの理学部1号館には小柴昌俊のノーベル賞受賞を記念して「小柴ホール」が設置された。
研究室の学生たちからは、『親分』と呼ばれる[3]。
- 趣味・嗜好
- 趣味はクラシック音楽で、モーツァルト愛好家[4]。また、ゲームソフトのファイナルファンタジーを好んでプレイしている[5]。
- メディア関連
- 2002年のノーベル賞受賞は田中耕一と同時期であり、マスコミの注目度では「サラリーマンのノーベル賞受賞」のほうが遥かに上であった。そのため田中耕一を妬んでいるといった、悪意ある中傷がなされたことがある。実際、マスコミの取材に対して不機嫌そうな態度を取ることがあったとされるが、それはあまりにレベルが低いインタビューに立腹したからというのが真相であると言われる[6]。上述の通り「変人」を自称する小柴にとって自身のノーベル賞は望外の幸運であり、後進の指導に熱心な事から後継者のノーベル賞受賞こそが望みであったと言われ、事実、ノーベル賞受賞を期待されながらその前に逝去した愛弟子の戸塚洋二について、そのことを惜しむ発言をしている。
なお、香川大学工学部教授で材料物理工学者の小柴俊は息子である。
著書
- 『ニュートリノ天文学の誕生』 講談社ブルーバックス 1989年 ISBN 978-4061327924
- 『ニュートリノ天体物理学入門』 講談社ブルーバックス 2002年 ISBN 978-4062573948 [上記書の改訂版]
英訳書
- Tomonaga, Shin-ichiro『Quantum Mechanics』 Interscience Publishers(1962年、朝永振一郎 『量子力学 I、II』(みすず書房)の英訳本。現在入手不能)
脚注
関連項目
外部リンク
- The Nobel Prize in Physics 2002 - 授賞式や受賞記念講演の動画など
- 東京大学理学部の小柴名誉教授ノーベル賞受賞記念ページ - 略歴、業績など
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 小柴昌俊『やれば、できる。』テンプレート:要ページ番号
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ カメラータ・トウキョウのCD紹介ページより
- ↑ 2002年10月9日、 朝日新聞朝刊
- ↑ 週刊現代2003年3月15日号