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2013年11月21日 (木) 20:49時点における最新版

テンプレート:Infobox リカルド・ゾンタRicardo Luiz Zonta, 1976年3月23日 - )は、ブラジルパラナ州クリチバ出身のレーシングドライバーである。

プロフィール

父親のパウロはダートレースを趣味とするアマチュアドライバーで、同時にゾンタが幼少期を過ごした時期は、ブラジル国籍のF1チームフィッティパルディも存在しており、ネルソン・ピケアイルトン・セナが活躍していた時期でもあり、そうした影響からゾンタはレースに興味を持つようになった。

初期の経歴

1987年、10歳の時に父親からカートを与えられ、初めて参戦したカートレースで優勝した。翌1989年は地元クリチバのカート選手権でランキング2位となり、1990年にはパラナ州選手権でチャンピオン、さらに1991年にはブラジルカート選手権を制した。1992年にはサンパウロカート選手権を4位で終えているほか、気まぐれ的にツーリングカーレースにも数戦のみ参戦している。

1993年にフォーミュラカーレースにステップアップし、フォーミュラ・オペルを1年戦った後、1994年にはブラジルF3選手権に参戦。翌年にはブラジルF3選手権と南米F3選手権でともにチャンピオンとなる。

1996年、ヨーロッパへと移り、ドラコレーシングに所属し国際F3000への参戦を始め、初年度はランキング4位、翌1997年にはチャンピオンに輝いた。

1997年はF1のジョーダンチームとテストドライバー契約を結んでいたが、1998年については、1996年から始まった国際ツーリングカー選手権(ITC)にメルセデス・ベンツから参戦していたためもあって、メルセデスと関係の深いマクラーレンとの間でF1テストドライバー契約を結ぶこととなる。

レースドライバーとしては1998年はFIA-GT選手権(GT1クラス)に大ベテラン、クラウス・ルドヴィックとのコンビでAMGメルセデスチームから参戦し、その年のチャンピオンとなった。

こうした経歴から将来を嘱望され、FIA-GT選手権を制した1998年10月、翌年からのF1参戦を目指していたブリティッシュ・アメリカン・レーシング(BAR)との間で正ドライバーとしての契約を結び、F1デビューにこぎつける。

F1以後

1999年にBAR・スーパーテックからジャック・ヴィルヌーヴのチームメイトとして新チームとともにF1デビューを飾った。

しかしながら、同チームが用意したBAR01シャシーは戦闘力、信頼性ともに欠けており、1年を通して苦戦を強いられた。加えてデビュー2戦目の地元ブラジルGPでフリー走行中のアクシデントにより足を負傷したことで、ブラジルGP予選・決勝に加えて第3戦から第5戦までの3戦を欠場せざるを得なくなる災難にも見舞われた。第12戦ベルギーGP予選ではスパ・フランコルシャンの名物コーナーであるオー・ルージュで大クラッシュを演じてもいる(チームメイトのヴィルヌーヴも全く同じ場所で同じ形のクラッシュをしているため、車体の問題が疑われた)。結局、F1デビュー年はヴィルヌーヴともども入賞すら一度も果たせずに終わる。

2000年もBARチームに残留。この年はチームがホンダエンジンを得たこともあって、開幕戦オーストラリアGPでヴィルヌーヴ(4位)とのダブル入賞となる6位でいきなり初のポイント獲得を果たすなど、3回の入賞を記録し、年間ランキング13位でシーズンを終えた。なおこの年、前年に大クラッシュを演じたスパ・フランコルシャンにおいて、トップから周回遅れのゾンタを挟んでミカ・ハッキネンミハエル・シューマッハを追い抜いた際、「20世紀最高のオーバーテイク」とも謳われるほどの追い越し劇が行われたが、両者に挟まれる形で周回遅れにされたゾンタは、結果的にこのパッシングショーを「世界で最も近い場所で見届けた観客」となった。

2001年はレギュラーシートを失い、ジョーダンに移籍して再び同チームのテストドライバーの座に就く。このシーズン、ハインツ=ハラルド・フレンツェンがフリー走行でのクラッシュの影響でレース出場を取り止めたカナダGPと、フレンツェンが解雇された直後のドイツGPの2戦に代役で出走した。

2002年から2003年にかけてはF1から一時離れ、スペインワールドシリーズ・バイ・ニッサンに参戦。2002年には同シリーズのチャンピオンを獲得した。

テストドライバー

2003年途中から、今度はトヨタのテストドライバーという形でF1への復帰を果たす。

2004年もトヨタのテストドライバーを務めたが、この年の規則改正により、「第3ドライバー」として各グランプリの金曜フリー走行でサーキットを走りデータ収拾に努めた。シーズン後半、第12戦ドイツGP後にクリスチアーノ・ダ・マッタが解雇されると、その代役として5レースでシートを得る。波乱の展開となったベルギーGPではレース終盤まで4位走行し、久しぶりのポイント獲得が期待されたが、惜しくもマシントラブルによりリタイアを喫してしまう。シーズン終盤の日本GPでは翌年から移籍することとなっていたヤルノ・トゥルーリにシートを譲ったが、最終戦を待たずに日本GPでオリビエ・パニスが引退したために、最終戦の母国ブラジルGPに再び出走した。

2005年は同じくトヨタの第3ドライバーとして、前年同様金曜フリー走行に出走していたが、アメリカGPでラルフ・シューマッハがフリー走行中のクラッシュの影響で欠場することとなった為、その後の予選から代役を務めることとなったが、レースはミシュランタイヤがレース走行に耐えられないという問題が発生し、他のミシュランタイヤ使用チームと同様にフォーメーションラップ終了後にレース撤退を余儀なくされた。

2006年もトヨタチームに残留し、同チームにおける4年目のシーズンを過ごしたが、前年にチームがランキング4位を得たため、この年は第3ドライバーとして金曜フリー走行に出走する機会も与えられず、表舞台に出ることはなかった。

2007年は、トヨタチームを去りルノーF1チームとテストドライバー契約を結んでいる。しかしながら、F1の新たな規則改正によりテスト走行の機会が極めて限られるためもあって、ルノーでの仕事と並行して母国ブラジルのストックカー・ブラジル選手権に参戦することを表明しており[1]、フルタイムのレースドライバーとしては、ワールドシリーズ・バイ・ニッサン以来、実に4年振りにサーキットに復帰することとなる。

レース戦績

ITC

チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 順位 ポイント
1996 ヴァルシュタイナー メルセデス-AMG メルセデス・ベンツ Cクラス V6 HOC
1

HOC
2

NUR
1

NUR
2

EST
1

EST
2

HEL
1

HEL
2

NOR
1

NOR
2

DIE
1

DIE
2

SIL
1

SIL
2

NUR
1

Ret
NUR
2

13
MAG
1

MAG
2

MUG
1

MUG
2

HOC
1

HOC
2

SAO
1

SAO
2

SUZ
1

SUZ
2

29位 0

FIA GT

所属チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1998 AMGメルセデス メルセデス・ベンツ・CLK-GTR GT1 OSC
1
SIL
4
1位 77
メルセデス・ベンツ・CLK-LM HOC
2
DIJ
1
HUN
2
SUZ
2
DON
2
A1R
1
HMS
1
LAG
1

F1

チーム シャーシ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 順位 ポイント
1999年 B・A・R 001 AUS
Ret
BRA
DNQ
SMR
MON
ESP
CAN
Ret
FRA
9
GBR
Ret
AUT
15
GER
Ret
HUN
13
BEL
Ret
ITA
Ret
EUR
8
MAL
Ret
JPN
12
23位 0
2000年 002 AUS
6
BRA
9
SMR
12
GBR
Ret
ESP
8
EUR
Ret
MON
Ret
CAN
8
FRA
Ret
AUT
Ret
GER
Ret
HUN
14
BEL
12
ITA
6
USA
6
JPN
9
MAL
Ret
14位 3
2001年 ジョーダン EJ11 AUS
MAL
BRA
SMR
ESP
AUT
MON
CAN
7
EUR
FRA
GBR
GER
Ret
HUN
BEL
ITA
USA
JPN
19位 0
2004年 トヨタ TF104B AUS
TD
MAL
TD
BHR
TD
SMR
TD
ESP
TD
MON
TD
EUR
TD
CAN
TD
USA
TD
FRA
TD
GBR
TD
GER
TD
HUN
Ret
BEL
10
ITA
11
CHN
Ret
JPN
BRA
13
22位 0
2005年 TF105 AUS
TD
MAL
TD
BHR
TD
SMR
TD
ESP
TD
MON
TD
EUR
TD
CAN
TD
USA
DNS
FRA
GBR
TD
GER
TD
HUN
TD
TUR
TD
ITA
TD
BEL
TD
BRA
TD
JPN
TD
CHN
TD
NC 0
所属チーム # ランキング 獲得ポイント 決勝最高位・回数 表彰台回数 予選最高位・回数
1999年 BAR 23 23位 0 8位・1回 0回 9位・1回
2000年 23 14位 3 6位・3回 0回 6位・1回
2001年 ジョーダン 11 19位 0 7位・1回 0回 12位・1回
2004年 トヨタ 16 22位 0 10位・1回 0回 11位・1回
2005年 17 無し 0 0回 13位・1回

FIA GT1

所属チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 順位 ポイント
2010 ロイター ランボルギーニ・ムルシエラゴ R-SV ABU
QR

10</br>
ABU
CR

5</br>
SIL
QR

</br>
SIL
CR

</br>
BRN
QR

</br>
BRN
CR

</br>
PRI
QR

13</br>
PRI
CR

10</br>
SPA
QR

2</br>
SPA
CR

1</br>
NÜR
QR

4</br>
NÜR
CR

14</br>
ALG
QR

</br>
ALG
CR

</br>
NAV
QR

1</br>
NAV
CR

1</br>
INT
QR

Ret</br>
INT
CR

Ret</br>
SAN
QR

</br>
SAN
CR

</br>
8位 75
2011 スモウ・パワー GT 日産・GT-R GT1 ABU
QR

4</br>
ABU
CR

Ret</br>
ZOL
QR

12</br>
ZOL
CR

Ret</br>
ALG
QR

8</br>
ALG
CR

7</br>
SAC
QR

</br>
SAC
CR

</br>
SIL
QR

</br>
SIL
CR

</br>
NAV
QR

</br>
NAV
CR

</br>
PRI
QR

</br>
PRI
CR

</br>
ORD
QR

</br>
ORD
CR

</br>
BEI
QR

</br>
BEI
CR

</br>
SAN
QR

</br>
SAN
CR

</br>
28位 9

エピソード

2000年ベルギーGP

2000年ベルギーGPでは、トップ走行中ミスにより後退したミカ・ハッキネンが、当時タイトルを争っていたミハエル・シューマッハを猛追し、劇的なオーバーテイクの末にトップを奪還するというハイライトがあったが、このオーバーテイクに際しては、外側から来るシューマッハと内側から来るハッキネンにゾンタが挟まれる形となった。余談だが、ゾンタはシューマッハがオーバーテイクをするために外側を空けておいたが、ハッキネンに対してはスペースを空けておらず、2人に挟まれることは全くの予想外であったため、驚きのあまり、無線で「あいつらクレイジーだ!」と叫んだという。このオーバーテイクの映像はゾンタの車載カメラからの映像も残っている。

記念碑

地元クリチバのクリチバ・サーキットには、ゾンタの国際F3000、FIA-GT選手権、ワールドシリーズ・バイ・ニッサンなどにおける活躍を称えた記念碑が存在する。これは2003年にワールドシリーズ・バイ・ニッサンが同サーキットで開催された際に置かれた。

外部リンク

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