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シャクシャインの戦い(シャクシャインのたたかい)は、1669年6月にシブチャリ(現北海道日高振興局新ひだか町の静内地区)の首長シャクシャインを中心として起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起である。日本の元号で「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)とも呼ばれる。
当時の状況
アイヌ民族集団間の対立
シブチャリ以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団メナシクルと、シブチャリからシラオイ(現在の胆振総合振興局白老町)にかけてのアイヌ民族集団であるシュムクルは、シブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いを続けていた。両集団の対立は、文献においては多くの死者が出たとされる1648年の戦いまで遡ることが出来る。
15世紀頃から交易や和人(大和民族)あるいはアイヌ同士の抗争などによって地域が文化的・政治的に統合され、17世紀には和人から惣大将と呼ばれる河川を中心とした複数の狩猟・漁労場所などの領域を含む広い地域を政治的に統合する有力首長が現れていた。シャクシャインや、『津軽一統志』に現れるイシカリの首長ハウカセ、ヨイチの八郎右衛門やシリフカのカンニシコルなどがこれに相当する。
メナシクルの首長であるカモクタインやシュムクルの首長でありハエ(後の日高国沙流郡、現在の日高町門別地区)に拠点を持つオニビシもまた惣大将である。シャクシャインはメナシクルの副首長であったが、カモクタインは1653年にシュムクルによって殺害されたために首長となった。
惣大将間の抗争を危惧した松前藩は仲裁に乗り出し1655年に両集団は一旦講和する。この際シュムクルと松前藩は接近しシュムクルは親松前藩的な立場となる。しかし1665年頃から対立が再燃、1668年5月31日(寛文9年4月21日) にはメナシクルによってオニビシは殺害される。
発端
シャクシャインにオニビシを殺されたハエのアイヌは松前藩庁に武器の提供を希望したが藩側に拒否されたうえ、サル(現日高振興局沙流郡)の首長ウタフが帰路に疱瘡にかかり死亡してしまった。このウタフ死亡の知らせを、アイヌ人は「松前藩による毒殺」と流布した。
この流布を以ってアイヌ民族は松前藩、シャクシャインは蝦夷地各地のアイヌへ松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌがそれに呼応した。この背景には、本州に成立した徳川政権から松前氏にアイヌ交易の独占権が与えられ、津軽や南部などの東北諸藩がアイヌ交易に参入できなくなったことがあげられる。対アイヌ交易を独占したことにより松前藩によって和人側に有利な交易レートが一方的に設定され、アイヌ側は和人製品を得るためにより多くの干鮭、熊皮、鷹羽などの確保が必要となった。これが惣大将同士による天然資源の独占競争をもたらし、シャクシャインとオニビシの抗争の原因の一つともなった。また、不利なレートを嫌い、交易を拒否するアイヌに対し、和人が無理やり交易を強要する押買が横行しするなど、アイヌには和人への不満が広がっていた。 このような不満により、事態は惣大将や地域集団同士の争いから多数のアイヌ集団による対松前藩蜂起へと移行した。
1669年6月21日(寛文9年6月4日) 、シャクシャインらの呼びかけによりイシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃した他、東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人を殺害した。
松前藩の反撃
一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎広林が部隊を率いて胆振のクンヌイ(現長万部町国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えるとともに幕府へ蜂起を急報し援軍や武器・兵糧の支援を求めた。幕府は松前藩の求めに応じ弘前・盛岡・久保田の3藩へ蝦夷地への出兵準備を命じ、松前藩主松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣した。弘前藩兵700は杉山吉成を大将に松前城下での警備にあたった。
シャクシャイン軍は松前を目指し進軍し、7月末にはクンヌイに到達して松前軍と戦闘を行った。戦闘は8月上旬頃まで続いたがシャクシャイン軍の武器が弓矢主体であったのに対し松前軍は鉄砲を主体としていたことや、内浦湾一帯のアイヌ民族集団と分断され協力が得られなかったことからシャクシャイン軍に不利となった。
このためシャクシャインは後退し松前藩との長期抗戦に備えた。9月5日(8月10日)には松前泰広が松前に到着、同月16日(8月21日)にクンヌイの部隊と合流し28日(9月4日)には松前藩軍を指揮して東蝦夷地へと進軍した。さらに松前泰広は松前藩と関係の深い親松前的なアイヌの集落に対して、幕府権力を背景に恫喝して恭順させアイヌ民族間の分断とシャクシャインの孤立化を進めた。
シャクシャイン軍の敗北
シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えであったため、戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前軍は謀略をめぐらしシャクシャインに和睦を申し出た。シャクシャインは結局この和睦に応じ11月16日(10月23日)、ピポク(現新冠郡新冠町)の松前藩陣営に出向くが和睦の酒宴で謀殺された。この他アツマ(現勇払郡厚真町)やサル(現沙流郡)に和睦のために訪れた首長も同様に謀殺あるいは捕縛された。翌17日(24日)にはシャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落した。
指導者層を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。翌1670年には松前軍はヨイチ(現余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品の受け取りや松前藩への恭順の確認を行った。戦後処理のための出兵は1672年まで続いた。
影響
このシャクシャインの戦いを経て、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至った。その後、松前藩は中立の立場をとり蜂起に参加しなかった地域集団をも含めたアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文によって服従を誓わせた(『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』)。これにより松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は強化された。その一方でアイヌにとって不利になる一方だった米と鮭の交換レートをいくぶん緩和するなど、融和策も行われた。
関連作品
- 小説
- 大森光章『シャクシャイン戦記』2002年
- 詩
- 新谷行『シャクシャインの歌 ― 長編詩』(1971年、蒼海出版)