鰻丼
鰻丼(うなどん、うなぎどんぶり)は、丼に入れた御飯の上に鰻の蒲焼を乗せた日本の丼物で、江戸の郷土料理とされる日本料理の一つ。
概要
タレは、醤油と砂糖を主として作られるが、各店は門外不出の秘伝のタレとして作り方に工夫を凝らしている。鰻を焼くときにもタレが使用されて蒲焼となるが、このタレは御飯に掛け、鰻の蒲焼を乗せた後に再度掛けるのが一般的である。山椒の粉は最後に振り掛ける。山椒は、消化を助ける効果があるとされ、泥臭さを消し、脂の多い鰻をさっぱりと食べる為の工夫である。
鰻の焼き方詳細は「蒲焼#鰻屋」を参照。
鱗のない魚は総じて皮が厚く、鰻も例外ではない(ナマズなどとは違いきわめて小さな鱗があるが皮膚に埋没している)。川や沼等に生息する天然産のウナギは養殖や輸入した物に比べて蒸した後に蒲焼にしても弾力があり、噛むほどに滋味を愉しめるほどの歯ごたえがある。その一方で一般に出回っている養殖ウナギのように箸先でほぐすことを期待しても切れないことがあり、直接蒲焼を口に運んで食いちぎらなければならないほどである。
香りが特徴的で鰻屋の店先まで漂うことから、「鰻屋の前で毎日香りをおかずに飯を食う男性が居て、腹を立てた鰻屋が香りの嗅ぎ代を請求すると、銭をジャラジャラ鳴らして『嗅ぎ代だから音だけで十分だろう』とやり返した」という小咄がある。また、1914年に次期首相に指名されながら組閣に失敗して大命を拝辞した清浦奎吾は、組閣難航中に「鰻屋で待たされているようなもので匂いはするが御膳はなかなか出て来ない」とぼやいたことがあり、この時のいきさつは「鰻香内閣」と呼ばれている(なお清浦は10年後の1924年に首相に就任、「御膳」にありついた)。
歴史
宮川政運の「俗事百工起源」によると、堺町(現在の東京人形町)で大久保今助がこの鰻丼を考え出したとされている。一説には所用で水戸方面へ向かっていた今助が牛久沼のほとりの茶店で鰻の蒲焼で飯を食べようとしたところ、渡し舟が出そうになったため、今助は蒲焼を飯の上に乗せて皿をふた代わりにして渡し舟に飛び乗った。渡し舟が対岸に着き舟を降りた今助は蒲焼を食べようとしたら蒲焼は飯の蒸気と熱でよい香りになり、味も今まで食べたどの鰻の蒲焼よりも一番美味しい味だった。江戸へ戻った今助は丼に飯を入れてその上に蒲焼を載せ「鰻丼」として売り出すようになった[1][2]。この御飯にタレが染込んだ味はこの芝居町で大人気となり、葺屋町(堺町の隣町)にある[3]大野屋が「元祖鰻めし」という看板で売り出したのが最初だと言う。売り出しを開始した年代は特定されていないが、中村座や市村座が1841年に焼失して移転した経緯から、その前の頃に売り出したと推定される。ともあれ、天保の飢饉(1844年)に、天保通宝一枚で売り出したのが評判を呼んだという[3]。
近世風俗史の基本文献とされている守貞謾稿によると、鰻飯は「鰻丼飯」の略。明治に入る頃まで京阪では「まぶし」、江戸では「どんぶり」と言えば、この「鰻丼」を指した[4]。また、このときに割り箸が登場した。現在も「鰻飯」という言葉を使う地域や店舗がある。
鰻重との違い
用いる食器が重箱なら鰻重になる。鰻重には、鰻の肝の入った肝吸いが付く事が多い。鰻重は、一説では、山谷にあった川魚料理屋「鮒儀」[3](のちの「重箱」で、のれんを引き継ぐ店は今は赤坂にある)の初代、大谷儀兵衛が始めたといい、江戸後期にはあったとされるが、これについては誤謬説もある[5]。異説では、重箱を使うものは大正時代に登場し、漆器を使うなど高級な印象を与えることを狙ったようで、現在でも鰻丼と比べると価格が高い傾向がある[6]。また、鰻と御飯が二重になっている物をそう呼ぶ事がある(器の底から「御飯-鰻-御飯-鰻」と「重」ねる意味から)。