魯 淑(ろ しゅく、217年か218年[1] - 274年)は、中国三国時代の呉の武将。魯粛の子。魯睦の父。
略歴
成人すると張承から、何時しか自分と同じ職に就くだろうと評価された。
永安年間(258年 - 264年)に昭武将軍・都亭侯・武昌督[2]となる。建衡年間(269年 - 271年)に仮節を授かり、夏口督に転任した。任地ではどこでも厳正な統治を行い、事を処理していく能力があった。
273年(鳳凰2年)、薛瑩と共に10万と号する兵を率いて西晋に出兵したが、弋陽の戦いで王渾に撃退された。翌年(鳳凰3年)死去した。
小説『三国志演義』には登場しない。
参考文献
脚注
- ↑ 魯淑は魯粛の遺腹の子であり、魯粛の没年が217年。
- ↑ 『三国志』「呂岱伝」によれば、武昌督は右部督・左部督に分かれていたが、魯淑が左右どちらに就いたかは不明。