郭威
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出生
堯山(河北省隆堯県)出身。父郭簡は、晋王・李克用の時代に刺史に任じられる高官であったが、郭威が幼少の頃、戦争に巻き込まれて戦死したために家門は没落する。やがて一兵卒から立身し、劉知遠にその才能を見出され重臣となった。劉知遠が後漢を建国するに際し大功を挙げ、枢密副使にまで昇進している。
即位
948年、劉知遠が没して劉承祐(隠帝)が即位すると枢密使に昇進する。さらに契丹を撃退するなど多大な軍功があり、人望を集めたという。そのため、その実力を劉承祐に恐れられるようになり、一族を皆殺しにされたうえ、自身も命を狙われるようになる。このため、軍と共に逆に反乱を起こして劉承祐を殺害し、劉知遠の甥(劉崇の子)劉贇(順帝湘陰公)を皇帝に立てたが、間もなく殺害して自ら皇帝として即位し、後周を立てたのである。
即位してからの郭威は、農村復興や節度使の統制、軍事力の強化など、内治に力を注いだという。
家族が皆殺しにされてしまったために、郭威とともに行動していて難を逃れた甥の柴栄(皇后柴氏の弟柴守礼の子)が後継者(世宗)となった。
子女
子
- 柴栄(養子)
- 剡王郭侗(郭青哥)
- 巳王郭信(郭意哥)
娘
- 楽安公主(莒国長公主)
- 寿安公主(晋国長公主)
- 永寧公主(梁国長公主)
年号
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