赤膚焼

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テンプレート:出典の明記 赤膚焼(あかはだやき)奈良県奈良市大和郡山市に窯場が点在する陶器である。

概要

草創は判然としないが、桃山時代大和郡山城主であった豊臣秀長が、五条村赤膚山に開窯したと伝えられる。

江戸時代後期には藩主、柳沢保光の保護を受け、幕末には名工、奥田木白が仁清写しなどの技術を披露し、世に広めた。小堀政一(遠州)が好んだ遠州七窯の一つにも数えられている。

文政年間には五条山に三窯あり「東の窯」「中の窯」「西の窯」と呼ばれていた。「西の窯」は明治12年に三代惣兵衛が没し、後を継いだ忠次郎のころ明治14年の末に他家へ同居した記録が残っているがしばらくして廃窯されたようである。「東の窯」は明治23年石川寅吉が継ぐ記録が残っているが、寅吉没後「東の窯」は廃窯されたようである。第一次世界大戦後の不況の余波を受け昭和初期には古瀬家の「中の窯」を残すのみとなった。昭和16年7月、銀座松屋にて「赤膚山元窯作品展示会」が開かれているが、当時の説明でも『「中の窯」只一つしか残存して居ない。』と書かれている。 現在、残された「中の窯」の大型登り窯は、登録有形文化財として古瀬堯三(ふるせぎょうぞう)窯で見学することができる。

赤膚焼と称されるものは数多くあるが、「東の窯」「西の窯」は現存していない。そのように称しているものは、ほぼ現代陶芸作家による詐称であるので購入する際には注意したい。

赤膚焼は名の如く、器肌に赤みを帯びている。名の由来はその器肌という説と地元の地名から来たという二説がある。その赤みを帯びた器に乳白色の萩釉を掛け、奈良絵と呼ばれる絵付けを施した物がよく知られる。奈良絵とは御伽草子などを題材とした庶民的な絵柄で、微妙な稚拙な構図が器肌の素朴さを巧く引き出している。

関連項目