赤松則良
テンプレート:基礎情報 軍人 赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日(1841年12月13日) - 大正9年(1920年)9月23日)は、日本の武士(幕臣)、軍人、政治家。貴族院議員。栄典は海軍中将従二位勲一等男爵。通称は大三郎。日本造船の父と呼ばれる。軍艦奉行の赤松範静は大叔父。
経歴
幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。弘化4年(1847年)、旗本だった祖父・赤松良則の後を継ぎ赤松姓となる。オランダ語を学び、蕃書調所に勤める。
安政4年(1857年)に長崎海軍伝習所に入所して航海術などを学ぶ。万延元年(1860年)日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行し、咸臨丸で渡米する。文久元年(1861年)に幕府よりアメリカ留学生として選任される。しかし南北戦争勃発のためオランダ留学生に変更となり、内田恒次郎・榎本釜次郎・沢太郎左衛門らと共に文久2年(1862年)、長崎を出航してオランダへ向かう。
文久3年(1863年)4月にオランダ・ロッテルダムに到着。開陽建造と同時進行で、運用術、砲術、造船学などを学ぶ。慶応2年(1866年)に完成した開陽丸に乗船して帰国する榎本釜次郎ら、同行のオランダ留学生達と別れてオランダへ残留、留学を継続する。慶応4年(1868年)大政奉還を知り、留学を中止し帰国の途に着く。同年5月17日、横浜港へ帰着した。
戊辰戦争が勃発すると、幕府海軍副総裁となった榎本釜次郎と合流して江戸脱走を試みるが果たせず、徳川家臣らと共に静岡藩へ移る。静岡藩沼津兵学校陸軍一等教授方として徳川家のために尽くし、その後は明治政府に出仕して海軍中将にまで累進。主船寮長官、横須賀造船所長、海軍造船会議議長、明治22年(1889年)に開庁した佐世保鎮守府の初代長官などの要職を歴任した。明治20年(1887年)に男爵を叙爵。貴族院議員も務めた。明治26年(1893年)に予備役となったのち、見付(現・静岡県磐田市)へ本籍を移し、終の住家として旧赤松家(静岡県・磐田市指定文化財)を建造する。旧赤松家は現在磐田市教育委員会の管理のもと、一般公開されている。明治38年(1905年)10月19日、後備役に編入[1]。1909年11月1日に退役した[2]。
日本海員掖済会の初代会長(1881年~1891年委員長、1891年~1905年会長)を務め、明治25年(1892年)3月には、有栖川宮威仁親王を同会総裁に推戴した。
家族・親族
- 妻:貞(奥医師林洞海二女)
- 長男:赤松範一(実業家、政治家)
- 三男:何盛三(男爵・何禮之養孫)
- 四男:色部庸男(男爵・色部義太夫養子)
- 五男:小寅(内務官僚)
- 七男:西酉乙(西紳六郎養子)
- 長女:登志子(軍医・作家森鴎外妻、のちに法学士の宮下道三郎に嫁いだが、30歳で病死)
- 孫
子は六男十女とする資料もある。うち一男二女が幼児期に、一女が十代で没している。[3]
エピソード
- 咸臨丸にて渡米した際、艦長・勝海舟より、航海中の功績あり、として、礼砲発射の号令を発する名誉を授かっている。
- 沼津兵学校勤務の際、明治新政府からの出仕を命ぜられても則良は渋っていた。出仕を決意した背景には勝海舟の助言があったと言われる。
- 妻・貞はオランダ留学に同行した林研海の妹であり、同じくその姉を娶った榎本武揚とも義兄弟となった。また、長女・登志子が森鴎外に嫁する際、媒酌人をつとめたのは、同じくオランダ留学生であった西周である。
- オランダ留学中、榎本武揚とともにシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦しており、その際前線の塹壕まで進み、戦闘を直に体験している。また、その帰路にドイツのクルップ社へ立ち寄り、招待された晩餐の席で、同社社長のアルフレート・クルップと怪しげなドイツ語で会話している。
関連
脚注
参考文献
- 『赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録』 赤松範一編注・解説、平凡社東洋文庫
- 『日本海員掖済会五十年史』 日本海員掖済会、1929年
外部リンク
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
-
|style="width:40%; text-align:center"|25px 佐世保鎮守府司令長官
初代:1887年9月26日 - 1891年6月17日
|style="width:30%"|次代:
林清康
- 転送 Template:End
- ↑ 『官報』第6694号、明治38年10月20日。
- ↑ 『官報』第7909号、明治42年11月2日。
- ↑ 肺病・コッホ・鴎外-結核の比較文化史福田眞人、名古屋大学、1990