蕭正徳

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蕭 正徳(しょう せいとく、? - 549年)は、中国南朝の皇族。は公和。初代皇帝武帝の弟の臨川王蕭宏の子。侯景により梁の皇帝に立てられたが(在位:548年 - 549年)、通常は僭称扱いとされ、代数には入れない。

人物

蕭衍には若い頃は男子がいなかったため、蕭正徳を義子としていた。蕭衍が即位した際には皇太子となることを予定されていた。しかし、その後蕭統(昭明太子)が生まれて皇太子とされ、正徳は西豊侯に封じられた。正徳はこのことを不満に思っていた。

蕭正徳は若い頃から礼節を軽んじ、偏狭・凶暴な性格であった。建康では殺人や強盗を繰り返していたという。また、一度北魏に亡命し、その数年後に再度亡命して梁に戻ってきたこともあったが、その際に武帝は罪を問わず、元の爵位に戻した。その後、臨賀王に転封されたがその乱行が収まることはなく、自らの妹を犯し焼き殺すなどと悪行を繰り返した。同様に乱行を重ねる息子共々「市で五匹の虎と会っても臨賀王父子には会いたくない」とまで言われた。

侯景が反乱を起こした時、蕭正徳の不満を知った侯景は彼を自らの勢力に勧誘した。その計画を知らない武帝の命で防御軍として出陣した彼は、そのまま侯景軍と合流し、侯景の手により皇帝に就けられた。蕭正徳は自分の娘を侯景の妻とし、侯景を丞相とした。

しかしその後、建康を陥落させると、侯景は蕭正徳を見限って、武帝および皇太孫の蕭綱を従来通り梁の正統として遇した。老いた武帝と蕭正徳は接見したが、自分の運命を悟って涙する蕭正徳に対し、武帝は「泣いたところで今更どうにかなろうか」と突き放したという。この言葉は、正徳を甘やかしてこの結果を招いた自分にも向けられたものであったのかも知れない。その後間もなく、蕭正徳は侯景により抹殺された。

伝記資料

  • 梁書』巻55(列伝第49)