能代 (軽巡洋艦)

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ファイル:Japanese cruiser Noshiro in 1943.jpg
艦歴
発注 1939年マル4計画
起工 1941年9月4日 横須賀工廠
進水 1942年7月19日
就役 1943年6月30日
沈没 1944年10月26日
位置 テンプレート:Coord
除籍 1944年12月20日
性能諸元
排水量 基準:6,652トン
公試:7,710トン
全長 174.50m
全幅 15.20m
吃水 5.63m
主缶 艦本式ロ号缶6基
主機 艦本式タービン4基4軸 100,000shp
最大速 35.0ノット
航続距離 18ノットで6,000浬
乗員 730名
兵装 15.2cm連装砲 3基6門
65口径7.6cm連装高角砲2基4門
61cm四連装魚雷発射管 2基8門
搭載機 2機(射出機1基)

能代(のしろ)は、日本海軍軽巡洋艦阿賀野型の2番艦。艦名は、秋田県を流れる米代川の下流域の別称、能代川にちなんで命名された。日本海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照。

太平洋戦争

竣工後ブーゲンビル島ニューアイルランド島カビエンへの輸送作戦に従事。

1943年11月1日のアメリカ軍のブーゲンビル島上陸に対し重巡洋艦7隻などと共に3日トラックを出航し5日ラバウルへ到着。同日ラバウルで米第38任務部隊による空襲を受け小破。
トラックからカビエンへの輸送作戦の際1944年1月1日カビエンで揚陸中に空襲を受け中破。
6月12日第三次渾作戦ソロン沖バチャン泊地に進出。13日アメリカ軍のサイパン来襲により作戦中止となり16日機動部隊と合流し19日、20日マリアナ沖海戦に参加。7月リンガ泊地に進出。

アメリカ軍のレイテ島来襲に対し、「能代」は栗田艦隊に属し、10月18日リンガ泊地を出撃する[1]。22日、ブルネイ泊地を出撃、23日から24日空襲前に艦載偵察機を発進させた[2]。24日シブヤン海海戦では主砲零式弾120発、8cm高角砲210発、機銃18000発を発射し、米軍機撃墜3、不確実2、協同撃墜7を主張する[3]。だが「能代」を含めた各艦は存在しない米潜水艦発見を報告し、空襲の最中にある艦隊は混乱した[4]。25日サマール島沖海戦では、米機動部隊を追撃し、戦闘前半ではスコールと煙幕により米艦隊を見失い[5]、午前8時38分には米駆逐艦主砲弾1発が弾薬供給所右舷上甲板に命中したが、戦死1名負傷3名で、それ以上の被害はなかった[6]栗田健男中将から追撃停止・反転命令があるまでに「能代」は巡洋艦1隻撃沈、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻撃破を記録した[7]。午後の米軍機の空襲では、左舷後部重油タンクに破孔が生じ、浸水により左舷外軸スクリューが使用不能・発揮可能速力32ノットとなる[8]。対空戦闘で米軍機撃墜6、不確実6、協同8を主張し[9]、25日の弾薬消費は主砲零式弾100発、四号通常弾160発、8cm高角砲450発、機銃24000発だった[10]

26日、「能代」を含めた栗田艦隊は、帰投途中にミンドロ島の南で米軍第38任務部隊による空襲を受ける。午前8時46分、爆弾1発が高角砲弾薬供給所に命中し小火災が発生したが、これは消火に成功し、致命傷にならなかった[11]。8時52分、左舷中央に魚雷1本が命中し、第1・第3缶室が浸水、傾斜16-26度となり、洋上に停止した[12]。魚雷の投棄や重量物の移動により傾斜8度まで回復、10時30分ごろ曳航作業がおおむね完成した[13]。その時、再び米軍機20機の空襲を受けた。洋上停止中の「能代」は回避行動もできず、10時39分に二番主砲塔右舷附近に魚雷1本が命中する[14]。「能代」は艦首から沈下をはじめ、10時49分に総員上甲板が発令される[15]。11時6分、総員退去。11時13分、北緯11度42分、東経121度41分の地点で「能代」は沈没した[16]。最後の戦闘で、「能代」は主砲零式弾20発、高角砲35発、機銃11000発を発射し、撃墜3、不確実1、協同5を記録した[17]。戦死行方不明者は87名、負傷者51名[18]。生存者は駆逐艦「浜波」と「秋霜」に救助された[19]

艦歴

  • 1941年9月4日 阿賀野型2番艦として横須賀工廠で起工。
  • 1942年7月19日 進水。
  • 1943年6月30日 竣工。
  • 1943年8月15日 第2水雷戦隊の旗艦となる。
  • 1944年1月1日 カビエン港外において、50kg爆弾を2発被弾。
  • 1944年10月26日 ミンドロ島南方にて空襲を受け魚雷2本、爆弾1発が命中。沈没。 

歴代艦長

艤装員長

  1. 田原吉興 大佐:1943年5月1日 - 1943年5月20日

艦長

  1. 田原吉興 大佐:1943年5月20日 -
  2. 梶原季義 大佐:1943年12月15日 -

同型艦

備考

戦後、旧海軍残務処理機関の吉田英三大佐を中心とするグループが構想した「新海軍」では、本艦「能代」をタイプシップとする巡洋艦を4隻建造し、艦隊旗艦及び戦隊旗艦とすることが考えられていた[20]

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献


テンプレート:日本の軽巡洋艦
  1. #捷号戦時日誌(7)p.5
  2. #捷号戦時日誌(7)p.6、#能代詳報(1)p.16
  3. #能代詳報(1)p.21、#捷号戦時日誌(7)p.7
  4. #能代詳報(1)pp.17-18
  5. #能代詳報(1)p.6
  6. #能代詳報(1)pp.7、29
  7. #能代詳報(1)p.7
  8. #捷号戦時日誌(7)p.9、#能代詳報(1)p.8
  9. #捷号戦時日誌(7)p.8
  10. #能代詳報(1)p.38
  11. #能代詳報(1)p.42
  12. #能代詳報(1)pp.8、42
  13. #能代詳報(1)p.9、43
  14. #能代詳報(1)p.9
  15. #能代詳報(1)p.9、43
  16. #捷号戦時日誌(7)p.10、#能代詳報(1)pp.9,44
  17. #能代詳報(1)p.42、#能代詳報(2)p.3
  18. #能代詳報(2)p.4、#捷号戦時日誌(7)p.11
  19. #能代詳報(1)p.10
  20. 海上自衛隊海上幕僚監部所蔵『旧海軍残務処理機関における軍備再建に関する研究資料』記載の編成表による