肥後流体術
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テンプレート:出典の明記 肥後流体術(ひごりゅうたいじゅつ)とは、1902年(明治35年)に、旧熊本藩に伝承されていた柔術6流で協議し、共通の入門者用の形、修行者の等級制度等を定めたもの。参加した各流派は、これにより肥後流体術××派と称することになった。(××に7名の何れかの師範の姓が入る)
大日本武徳会の柔道形制定とともに解消したと思われる。
熊本藩の柔術師範であった星野九門(四天流組討)が、明治に入り衰微していく柔術を憂い、同じく熊本藩の柔術師範であった6名に呼びかけて成立した。
参加した師範は以下の通り
- 星野九門(四天流組討、伯耆流居合術、楊心流薙刀術)
- 除野熊雄(四天流組討)
- 高岡一太郎(天下無双流捕手)
- 野々口常人(塩田流小具足、雲弘流剣術)
- 矢野廣次(竹内三統流柔術、新心無手勝流居合)
- 江口彌三(扱心流体術)
- 山東清武(楊心流柔術、二天一流剣術)
肥後流体術形
肥後流体術形は、熊本藩に伝承されていた柔術6流を統合した10本からなる形である。流派を超えて共通の形を定めた点は、のちの大日本武徳会が形を制定する動きの先駆ともいえる。
入門者は、この形を学んでから、自分が所属する流派の伝統的な形を学ぶことになっていた。
等級制度
各派の門弟を一級~四級の共通の等級に分け、等級を認定されるには各派合同での試験に合格することと定めた。段級位制の先駆であり、修行者の実力判定を、他流も一緒になって行うという点で注目すべき制度である。