相良前頼
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相良 前頼(さがら さきより)は相良氏の第7代当主。
生涯
応安元年/正平23年(1368年)、父の隠居により家督を継いだとも、応安5年/文中元年(1372年)の父の死により家督を継いだとも言われており、詳細は定かではない。
九州探題として今川貞世(了俊)が新たに赴任されて来ると、前頼は了俊に従って北朝方として活躍した。ところが永徳3年/弘和3年(1383年)4月、突如として南朝方に寝返り、至徳2年/元中2年(1385年)には南朝の後亀山天皇より肥前守護に任じられ、その後に征西将軍宮良成親王より軍功を賞され肥前国小瀬庄を賜った。その後も南朝方として行動したが、明徳3年/元中9年(1392年)に足利義満によって南北朝合一が行われると、再び了俊のもとへ帰順した。
その後は日向国都城を本拠とし、薩摩島津氏の庶家北郷氏と対立、その居城を攻めた。しかし援軍として島津元久の軍勢が現れた為に都城へ退去したが、そのまま城を攻められる。1394年1月19日に防戦拙く敗れ、弟の頼書、頼成、前成と共に戦死してしまった。後を嫡男の実長が継いだ。