田端 (東京都北区)
テンプレート:Pathnav テンプレート:Infobox Settlement 田端(たばた)は、東京都北区の町名。現行行政地名は田端一丁目から田端六丁目。
目次
地理
東京都北区・滝野川地区の東部に位置している。田端1丁目と東田端1丁目の境にJR山手線・京浜東北線の田端駅がある(駅の大部分は東田端にあたる)。2008年(平成20年)秋に駅ビル「アトレヴィ田端」が完成した。滝野川警察署・滝野川消防署の管轄下にあたる。
地価
住宅地の地価は2014年(平成26年)1月1日に公表された公示地価によれば田端2-11-13の地点で47万8000円/m2となっている。
歴史
江戸時代の豊島郡田端村が起源。現在の田端駅はかつての田端村の崖地だったところにあり、従来の田端は駅西部、いわば崖の上側、道灌山台地上にあった。江戸時代には、江戸の鬼門を守る上野東叡山寛永寺の寺領が多くを占め、このほか多くの寺社が建てられた。鶯谷に住んだ明治の俳人・正岡子規の墓がある大龍寺も田端である。
田端村は1889年(明治22年)の町村制施行により北豊島郡滝野川村(1913年に町制施行し滝野川町へ)大字田端となる。1930年には大字田端より一部地域が大字田端新町一〜三丁目として分立。滝野川町は1932年(昭和7年)東京市へ編入され滝野川区へ移行し、大字田端は田端町となる。1947年(昭和22年)に滝野川区は王子区と合併し北区が成立。1965年以降、田端町に順次住居表示が施行され田端一〜六丁目・東田端一〜二丁目・中里三丁目の一部となって現在に至っている。
沿革
- 1965年(昭和40年)5月15日 - 住居表示により田端町の一部が東田端一〜二丁目として分立。
- 1976年(昭和51年)5月1日 - 住居表示により田端町の残部全域が田端一〜六丁目および中里三丁目(一部)となる。田端町は廃止。
町名の変遷
実施後 | 実施年月日 | 実施前 |
---|---|---|
田端一丁目 | 1976年(昭和51年)5月1日 | 田端町 |
田端二丁目 | ||
田端三丁目 | ||
田端四丁目 | ||
田端五丁目 | ||
田端六丁目 |
地名の由来
田圃の端(はじ)に拓いた村であることから、田端と名づけられたといわれる。
ナウマンゾウ
1896年、日本鉄道線の上野駅と王子駅の間に田端駅が開設された。2年後の1898年、駅構内の崖を削り役宅を造成した際に、ゾウ類の牙(切歯)の化石が発見され、東京帝国大学理学部地質学教室に持ち込まれた[1]。大学院生(当時)だった徳永重康が翌年にかけて現地で調査し、海成砂層(東京層)とローム層に挟まれる青灰色粘土層(本郷層)から臼歯2本を採集した[2]。徳永はこれらを記載した論文を1906年に発表した。これは日本人の手による最初の脊椎動物化石の研究であり、専門家の手によって採集され産出層準等の情報とともに記載された脊椎動物化石としても日本初であった。徳永はヨーロッパのアンティクースゾウ (w:en:Straight-tusked Elephant) のものとしたが、現在では独立種ナウマンゾウのものであることがわかっている。これらの標本は犬塚則久によって再研究され、若いオスのナウマンゾウの左下顎第一大臼歯、右下顎第一大臼歯、および左切歯であると同定されている[3]。このナウマンゾウ田端標本は東京大学総合研究博物館に保管され、レプリカが北区飛鳥山博物館に展示されている。
小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合の学区は以下の通りとなる[4][5]。
町丁 | 小学校 | 中学校 | |
---|---|---|---|
田端一丁目 | 北区立田端小学校 | 北区立田端中学校 | |
田端二丁目 | 北区立田端小学校 | ||
田端三丁目 | 北区立田端小学校 | ||
田端四丁目 | 北区立田端小学校 | ||
田端五丁目 | 北区立田端小学校 | ||
田端六丁目 | 北区立田端小学校 |
施設
- 田端アスカタワー
- 田端NSKビル
- 田端駅前通り商店街
- 田端高台通り商店街
- 富士見橋エコー広場館
- 田端三丁目まちかど広場 - トイレ無し
- 田端公園
- 田端台公園
- 田端西台児童遊園
教育機関
かつて存在していた教育機関
史跡
交通
鉄道
道路
脚注
関連項目
テンプレート:東京都北区の町名- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ 小学校通学区域一覧|東京都北区 2014年3月9日閲覧。
- ↑ 中学校通学区域一覧|東京都北区 2014年3月9日閲覧。