海堡

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海堡(かいほう、かいほ)は、洋上における要塞の一つで、海上に人工的に造成した砲台を配置したものである。日本では明治大正に建設された複数の海堡が主に東京湾に存在している。

日本の海堡

日本は明治から大正にかけて、山縣有朋陸軍大将が日本国内の要塞化を主張。東京湾には千葉県富津岬沖から、神奈川県横須賀市側にかけて首都防衛のために3ヵ所の人工島が造成された。完成後は兵舎や砲台が建設され、自然島である猿島とあわせて東京湾口に円弧状に存在する防衛ラインの一環として運用された。

なおこれらの東京湾に作られた海堡は、現在は洋上要塞として機能していない上に、東京湾周辺の海上交通の輻輳から海難事故の原因と指摘されていることから、ヨット愛好家でもある石原慎太郎をはじめ、船舶運航関係者が撤去を主張している。一方で、建設当初に堅牢に設計されたために撤去が困難である部位を残している。

第一海堡

1881年8月起工、1890年12月完成。富津岬の沖合いすぐに位置し面積は約23,000m²。東京湾要塞の海堡として最初に運用が開始された。

第二海堡と第三海堡は1923年9月1日関東大震災により被災し、その年の内に廃止・除籍されたものの、第一海堡はその後も使用され、東京湾要塞の一部として第二次世界大戦の終了時まで運用された。

現在中央部が破壊されているが、これは第二次世界大戦後に日本を占領下に置いた連合国軍により要塞無力化のために破壊されたためである。

土砂の堆積と関東大震災による隆起のため、富津洲と地続きになっていたことがある。海底の水深は1.2mから4.6mであり、第一海堡を撤去しても航路として活用するには別途浚渫が必要である。富津岬突端の展望台からは横須賀市を背景に第一・第二海堡を一望することができる。

現在は海上保安庁によって灯台が設置されている。なお財務省の所管であり、無断での立ち入りはできない。

第二海堡

1889年8月起工、1914年6月完成。第一海堡と共に富津市に属する。浦賀水道と内湾の北側境界に位置し面積は約41,000m²。1923年9月1日の関東大震災により被災、その年の内に廃止・除籍された。

その後海軍が使用し、第二次世界大戦中は対空砲が設置されるほか、敵潜水艦の東京湾への侵入を防ぐ防潜網が設置されている。敗戦にともない第一海堡同様、施設を爆破処理される。戦後は灯台が設置され、さらに1977年からは海上災害防止センター[1]の消防演習場として利用されている。

以前は神奈川県からの渡し舟で釣り人が渡航していたが、侵食が進んでいることによる安全上の理由から2005年6月末に立入りが禁止された。

現在は第一海堡とともに海上保安庁によって灯台が設置されている。浦賀水道航路および中ノ瀬航路に接し、くの字に折れ曲がった航路の凹部に隣接する。海底の水深は8mから12mであり、第二海堡を撤去しても喫水の大きい船が航行するには更なる浚渫が必要。将来直下型の大地震が起きた際に劣化した護岸が崩壊し、流出する土砂が航路の海底に堆積して大型船舶の往来を妨げる危険があることから、2006年度から護岸整備工事が行われている。今後も灯台と消防演習場として存続される予定である。

第三海堡

1892年8月起工、1921年完成。横須賀市観音崎沖に建設され、面積は約34,000m²。三つの海堡の中で最も水深が深い位置(約39メートル)に造成されたため難工事となり、完成までに30年を要している。しかし完成から2年後関東大震災により崩壊し4.8メートルも沈下し、全体の三分の一が水没してしまったために復旧は困難と判断されて廃止・除籍された。

第三海堡跡は浦賀水道航路に隣接し、海上交通の輻輳から海難事故の原因と指摘されていた。航路として安全な水深を確保するため2000年12月から撤去工事が進められており、2007年8月に撤去が完了した。吊り上げられた構造物は第三海堡跡南西2,000m の海域に投棄され魚礁などに再利用されているほか、一部は陸揚げして綿密に調査され、当時の土木工事の水準を超えた人工島造成技術が分析されている。

兵舎や弾薬庫など陸揚げされた構造物は横須賀市浦郷町の国土交通省関東地方整備局追浜展示施設で公開されている。また、大型兵舎はうみかぜ公園に展示されている。

脚注

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関連項目

海堡が登場する作品

外部リンク

  • 海上災害防止センターは1977年当時は認可法人。2003年より独立行政法人、2013年より一般財団法人