浅利 則祐(あさり のりすけ)生年不明 - 1562年(永禄5年))は比内豪族浅利氏浅利則頼の嫡男。 出羽に住した甲斐源氏の一党。
浅利氏は父の則頼の時から檜山安東氏・南部氏・津軽との領地をめぐって抗争を繰り返していた。則祐は側室の子であるが正室の子浅利勝頼が後で生まれて弟となった確執により、最終的には1562年に檜山安東氏と結託した勝頼の裏切りも手伝って扇田長岡城を攻められ自害を余儀なくされたのである。則祐の子孫はその後、藤琴村に家臣と共に逃亡、そこに土着して繁栄した。