樊稠

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樊 稠(はん ちゅう、? - 195年)は、中国後漢時代末期の武将。涼州の人。韓遂は同郷の友とされるため、金城郡出身の可能性が高いが、郡・県の出身地は不詳。

正史の事跡

董卓配下[1]。董卓死後の初平3年(192年)6月、長安を占拠し王允らを粛清した後、らと共謀して献帝を擁立した。同年9月、右将軍・万年侯となる。以後、李郭汜と共に朝政を壟断した。

興平元年(194年)3月、馬騰と韓遂が李に背くと、樊稠は郭汜・李利と共にこれを討伐した。まず、馬騰に内応して反乱を起こした中郎将の杜稟や、侍中の馬宇らを槐里に攻め滅ぼし、馬騰・韓遂の連合軍も長平観において撃破した。この時に樊稠は、韓遂を陳倉に追い詰めながらも、同郷の友であることから見逃し、さらに談笑して別れた。この場面を李利が目撃して李に密告したため、李は樊稠に猜疑心を抱き始めた。同年8月には、馮翊の族が反乱したため、樊稠は郭汜と協力して、これを撃ち破った。しかし、まもなく李ら指導者間で権力争いが勃発し、興平2年(195年)2月、樊稠は李に殺害されてしまった。

なお、樊稠の最期については2説ある。『三国志』董卓伝注に引く『九州春秋』によれば、上記の李利の密告が原因で、内通を疑った李に会議の席上で殺されたとある。一方、『後漢書』董卓伝注に引く『献帝紀』によると、李は、樊稠が勇猛果敢で部下からの人望が厚いことを恐れ、樊稠が酒に酔ったところを、配下の騎都尉であった胡封に暗殺させたという。いずれにしても、西涼軍を撃退できる力量を持った同僚を内紛で葬り去ったことで、李は、かえって自滅の道を辿ることになった。

脚注

  1. 後漢書』董卓伝・『三国志』魏書董卓伝等に記述がある。

物語中の樊稠

小説『三国志演義』でも、ほぼ史実同様に描かれているが、その最期については『九州春秋』の説が採用されている。

参考文献

  • 後漢書』列伝62董卓伝
  • 同本紀9孝献帝紀
  • 三国志』魏書6董卓伝、付・李郭汜伝
  • 三国演義
  • 盧弼『三国志集解』(古籍出版社、1957年)