桓宗 (西夏)

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テンプレート:Redirect テンプレート:基礎情報 中国君主 桓宗(かんそう)は、西夏の第6代皇帝。仁宗の長男。

生涯

天慶7年(1200年)に母の羅太后が病に罹ると、金から医師を呼んで薬を処方させた。

天慶12年(1205年)に西夏は初めて[1]チンギス・ハーン率いるモンゴル軍の侵入を受ける。モンゴル軍の包囲を受けた力吉裏(エリンリキ)の城砦は陥落し、経落思(ケレンクルシ)城は略奪され、住民とラクダがモンゴル軍に奪われた[2]。翌応天元年(1206年)に羅太后と甥の李安全を中心とする一派によって帝位を廃され[3]、配所で没した[4]

脚注

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参考文献

  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透 訳注、東洋文庫、平凡社、1968年3月)
  • 金史』巻134、列伝72、外国上
  • 宋史』巻486、列伝245、外国2、夏国下
先代:
仁宗
西夏の第6代皇帝
1193年 - 1206年
次代:
襄宗
  1. C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透 訳注)、83頁
  2. C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透 訳注)、85頁
  3. 「七月、使純佑母羅氏為表、言純佑不能嗣守、与大臣定議立安全為王、遣使奏告。」、『金史』巻134、列伝72、外国上
  4. 「泰和六年三月、仁孝弟仁友子安全、廃純佑自立、再閱月死於廃所。」、『金史』巻134、列伝72、外国上