松平忠国 (武蔵国忍藩主)

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テンプレート:基礎情報 武士 松平 忠国(まつだいら ただくに)は、江戸時代後期から末期の大名武蔵忍藩第3代藩主。奥平松平家11代。奥平松平家8代、伊勢桑名藩松平忠翼の五男。

生涯

天保12年(1841年)5月9日、三兄・忠彦の跡を継いで忍藩主となった。同年12月16日、従五位下駿河守に叙任する。後に下総守、織部正に改める。天保13年(1842年)には房総半島沿岸の警備、嘉永6年(1853年)には品川台場の警備を務めている。弘化元年(1844年)12月16日、従四位下に昇進する。弘化2年(1845年)13月25日、溜の間詰めとなる。同年4月5日、侍従に任官する。弘化3年(1846年)16月2日、アメリカ東インド艦隊浦賀来航により沿岸警備を命じられ、11月16日には幕府から浦賀沿岸警備の費用として5000両を支給された。弘化4年(1847年)12月15日、幕府から安房上総の沿岸警備を命じられ、3月15日に幕府から沿岸警備の費用として1万5千両を支給される。安政元年(1854年)12月16日、左少将に任官する。文久3年(1863年)4月1日に隠居し、養子の忠誠に家督を譲ったが、実権はなおも握り続けた。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、親藩だったということもあり藩内では旧幕府方に与して抗戦するか、新政府軍に恭順するかで二分に分裂したが、忠国は病身を押して藩論を一つにまとめた上で、新政府軍に恭順を誓った。同年54歳で死去した。

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