本所松坂町公園
本所松坂町公園 (ほんじょまつざかちょうこうえん)は、両国にある東京都墨田区立の公園。元禄赤穂事件で有名な吉良義央の邸宅があったところで、赤穂浪士によって討ち入りを決行された現場である(本所松坂町は当地の旧名)。
概要
一般にある児童公園の類と違い、遊具などはない。約98平方メートル(29.5坪)[1]の敷地に稲荷社や井戸、桜の木などがある程度で、むしろ記念広場に近い。
元禄時代の当時は付近の一帯が吉良義央の邸宅であり、その広さは約8400平方メートル(2550坪)と推算されているから、その広さをうかがうことができる。邸宅は、赤穂浪士による討ち入りの後は江戸幕府に没収され、その後住宅などが立ち並び、往時の吉良邸を偲ばせるものはなにもなかったが、昭和9年(1934年)に地元の有志らが旧邸内の「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入して東京市に寄贈し、翌昭和10年(1935年)に公園として開かれたのが始まりである。昭和25年(1950年)に墨田区へ移管された[1]。
普段は住宅街のなかにあるので閑散としているが、地域主催の義士祭(12月14日)が行われる際は多数の出店などがあり、近隣だけではなく全国から多くの観光客で賑わいを見せる。また、当地には斬られ役でもある義央を偲び、公園内にある稲荷社、松坂稲荷[1]に参拝に来るものも少なくない。
利用案内
本所松坂町
『忠臣蔵』関係の書籍のなかには、本所松坂町に吉良邸があったと書かれているものが多いが、これは明治期の講談の影響によるもので、史実ではない。
吉良邸討ち入りから1年弱経った元禄16年(1703年)の元禄大地震とそれの6日後に起きた大火(水戸様火事)で吉良邸があった周辺は壊滅状態になり、その復興のときに吉良邸跡の4割ほどのところに御鏡師の中島伊勢・御研師の佐柄木弥太郎の拝領町屋と芝田町代地ができ、残りは使用目的が決まっていない割残地であった。宝永2年~4年(1705年~1707年)にかけて中島・佐柄木両名の拝領町屋は本所松坂町一丁目拝領町屋に、芝田町代地が本所松坂町二丁目年貢町屋となった。この時に「本所松坂町」の町名ができたのである。
またこの頃、吉良邸跡の割残地だったところが芝新堀常浚拝領地となっており、吉良邸跡すべてが本所松坂町となった年代は不詳であるが、宝暦12年(1762年)の時点ではそれが確認されている。なお、吉良邸跡だけでなく、その近所の回向院東の道沿いなどに本所松坂町一丁目の町屋があった。
本所松坂町前史
本所松坂町があった周辺は、かつては広大な幕府の御竹蔵(竹材保管施設)があったところで、1670年代の延宝年間にそれがあったことが確認されている。元禄の初年頃(1690年前後)に御竹蔵周辺は大きな改修工事が行われ、西正面の道に張り出して設置されていた小屋場(竹材の陸送に用いる大八車が置かれていた)が廃されて御竹蔵正面は西から南にかわり、水運のための竪川に続く新道が敷かれた。
元禄11年9月6日(1698年10月9日)の大火(勅額火事)後に御竹蔵は廃され、同年11月には御竹蔵跡を武家屋敷にするた南北に走る新道が敷かれ、東西のブロックができた。勅額火事に被災した松平信望と土屋逵直はすぐにが西ブロック内に代替地を拝領。12月には西ブロック内に本多長員、東ブロック内に牧野長門守と鳥居久五郎が代替地を拝領した。元禄14年(1701年)8月に信望はここを立ち退き、翌月に吉良義央が受領した。
吉良邸の先住者に関して、鉄砲百人組頭だった近藤貞用であったとした説が古くからあり、文政11年(1828年)頃に町方からの報告によって幕府が作成した『文政町方書上』や『御府内備考』などにもこの説が記載されていた。これは本所松坂町二丁目にあった「兼春稲荷」の別当・円蔵院が書いた由緒書の間違いから出たもので、貞用が信望と同じ「登之助」を通称していたことから誤ったとされている。本所松坂町があった周辺では「近藤登之助説」は昔から信じられており、そのため三田村鳶魚が昭和5年(1930年)刊行の『横から見た赤穂義士』(民友社)で「近藤登之助説」を採用したことから、その影響で吉良邸前主を近藤登之助と書いた本が数多く出た。
脚注
関連項目
外部リンク
- 本所松坂町公園 - 墨田区公式サイト
- 吉良邸跡(本所松坂町公園) - すみだ観光サイト 一般社団法人 墨田区観光協会テンプレート:ウィキ座標2段度分秒