新光精工FCクレール
新光精工FCクレール(しんこうせいこうエフシークレール)は、かつて日本女子サッカーリーグ(L・リーグ)に所属していたチーム。東京都小平市を拠点としたFC小平の女子チームをもとに新光精工株式会社のスポンサードにより誕生。[1]1993年から外食産業のシダコーポレーションをスポンサーとするTOKYO SHiDAX LSC(とうきょうシダックスエルエスシー)となったが、ブームが沈静化した影響か、練習グラウンドの確保が困難という理由を名目にして、1995年シーズンを最後として廃部が決定。[1]第17回全日本女子サッカー選手権大会準決勝での敗戦により短い歴史に幕を下ろした。
クラブの概要・歴史
「第11回アジア競技大会」(1990年)から女子サッカーが正式種目になることに伴い「女子もサッカーの全国リーグを作ろう。」との機運が高まったため、各地域でのリーグで活動していたチームを中心に「日本女子サッカーリーグ」(JLSL)が1989年に誕生することになった。
東京都リーグで活動し、第4回全日本女子サッカー選手権大会では4位という実績をもつFC小平の女子チームもJLSLへの参加を検討したが、チームの安定した運営を考慮し新光精工株式会社をスポンサーとして誕生。フランス語で「明るい、明白な」という意味をもつ「クレール(clair)」を愛称とする新光精工FCクレールとしてJLSLの初年度から参加した。
そのプレースタイルから「おんな釜本」と呼ばれた日本女子代表のエースストライカー長峯かおりを中心に高萩陽子、泉美幸ら代表選手を擁したチームで、第11回全日本女子サッカー選手権大会ではベスト4にも輝いたがリーグ戦での成績は上がらず、とくに長峯が退団(のちイタリアのチームへ移籍)したのちは下位に低迷した。
1993年から外食産業のシダコーポレーションがスポンサーとなり、チーム名はTOKYO SHiDAX LSCに変更。[1]ブラジル人監督やアメリカ代表選手などの獲得。さらにスポンサーの特性をいかした「アスリート食」の研究により上位進出を図った。
しかし成績はまったく上向くことがなく、2年連続して下位に低迷。さらに折りからの不況に加え練習グランド確保が困難という問題を解決できず、結局これを理由に1995年シーズンを最後として廃部が決定。[1]翌1996年に行われた第17回全日本女子サッカー選手権大会準決勝でフジタSCマーキュリーとの対戦にPK戦で敗れ、短い歴史に幕を下ろした。
日本女子サッカーリーグ(JLSL)の成績
回 | 年度 | チーム名 | リーグ | チーム数 | 試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1989<td rowspan="4">新光精工FCクレール<td rowspan="7">JLSL | 6 | 10 | 8 | 2 | 4 | 4 | 4位 | ||
2 | 1990 | 6 | 10 | 8 | 3 | 2 | 10 | 5位 | ||
3 | 1991 | 10 | 18 | 12 | 5 | 2 | 11 | 7位 | ||
4 | 1992 | 10 | 18 | 6 | 1 | 4 | 13 | 9位 | ||
5 | 1993<td rowspan="3">TOKYO SHiDAX LSC | 10 | 18 | -- | 5 | -- | 13 | 8位 | ||
6 | 1994 | 10 | 18 | -- | 8 | -- | 10 | 7位 | ||
7 | 1995 | 10 | 18 | -- | 8 | -- | 10 | 7位 |
註)92年まで「勝ち点制」を採用。また前後期制を採用した93年以降の成績は年間順位。
獲得タイトル
- 1990年 第11回全日本女子サッカー選手権大会 ベスト4
- 1996年 第17回全日本女子サッカー選手権大会 ベスト4
チーム名変遷
- 1989年~1992年 新光精工FCクレール
- 1993年~1995年 TOKYO SHiDAX LSC
チームカラー
- チームカラーは赤(新光精工時代は黄色)
(最終年のパターン)
歴代監督
(日本女子サッカーリーグ開幕以降)
- 1989年 - 1990年 永沢孝男
- 1991年 宮下幸男
- 1992年 永沢孝男
- 1993年 ジュリオ・シーザー・カストロ・エピノーザ
- 1994年 ジョン・R・コッサブーン
- 1995年 齋藤誠