アラバマ (戦艦)

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USS Alabama (BB-60)
艦歴
発注 1939年4月1日
起工 1940年2月1日
進水 1942年2月16日
就役 1942年8月16日
退役 1947年1月9日
その後 博物館船として公開
性能諸元
排水量 基準:35,000トン、満載:44,374トン
全長 207m
全幅 33m
吃水 11m
機関 蒸気タービン4機4軸 130,000 馬力(97 MW)
最大速 27.5ノット
乗員 士官、兵員1,793名
兵装 45口径40.6cm砲:9門
38口径12.7cm砲:20門
56口径40mm対空砲:24門
70口径20mm対空砲:22門

アラバマ (USS Alabama, BB-60) はアメリカ海軍戦艦サウスダコタ級戦艦の4番艦。艦名はアメリカ合衆国22番目の州にちなむ。その名を持つ艦としては3隻目。

艦歴

アラバマは1940年2月1日にノーフォーク海軍工廠で起工し、1942年2月16日にリスター・ヒル夫人(アラバマ州選出上院議員J・リスター・ヒルの妻)によって命名、進水し、1942年8月16日に初代艦長ジョージ・B・ウィルソン大佐の指揮下就役した。

第二次世界大戦

艤装完了後アラバマは、1942年11月11日にチェサピーク湾で整調巡航を始めた。1943年になるとメイン州カスコ湾に向かい訓練を行った。その後1月11日にチェサピーク湾に戻り、整調訓練を行った。ノーフォークでの検査後、アラバマは第22.2任務群に割り当てられ、1943年2月13日に戦術的機動作戦のためにカスコ湾に戻った。

イギリス海軍シチリア侵攻のためその戦力を地中海に振り向け、北部での船団警護に必要な艦艇が不足していた。イギリスの支援要請に応じて、アラバマとサウスダコタ (USS South Dakota, BB-57) がその任務に就いた。

1943年4月2日にアラバマは第22任務部隊の一部として、サウスダコタおよび5隻の駆逐艦と共にオークニー諸島へ出航した。ニューファンドランド島アージェンティアプラケンティア湾を経由し、1943年5月19日にスカパ・フローへ到着する。第61任務部隊に配属、イギリス本国艦隊の一部となり、共同作戦を調整するための集中的な訓練演習を行った。

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大戦後

大戦の終盤、アラバマは本州の南部海岸から行動した。1945年8月15日に日本が降伏すると、アラバマは横須賀東京に占領業務に従事する水兵を運んだ。アラバマの乗組員は艦隊中一番に上陸した。その後、捕虜収容所捜索の偵察飛行を行う空母部隊の護衛任務に従事した。

アラバマは9月5日に東京湾に入り、占領業務から帰国する兵士を乗艦させると9月20日に出航した。マジック・カーペット作戦の一環として沖縄で海軍構築大隊の700名の水兵を乗艦させ帰国の途につく。10月15日にサンフランシスコに到着し、10月27日の海軍記念日には9,000名の訪問客が乗艦した。その後10月29日にカリフォルニア州サンペドロ湾へ向かい、1946年2月27日まで留まる。続いて不活性化オーバーホールのためピュージェット・サウンド海軍工廠へ向かった。アラバマは1947年1月9日にシアトル海軍基地で退役し、ブレマートンの太平洋予備役艦隊入りした。1962年6月1日に除籍されるまでアラバマは同所に留まった。

アラバマ州民はアラバマを記念艦として保存するため「USSアラバマ戦艦委員会」を組織し、その資金を調達した。アラバマは1964年6月16日に引き渡され、1964年7月7日にシアトルで記念式典が開催された。1964年9月14日にモービル湾に牽引され、永久展示されている。1986年にはアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。

アラバマは第二次世界大戦の戦功により9個の従軍星章を受章した。

関連項目

  • 沈黙の戦艦』(映画:1992年公開)- ストーリでは戦艦『ミズーリ』が舞台となっているが、記念艦として係留保存されている戦艦『アラバマ』の外見を『ミズーリ』風に改装して同艦で撮影が行われた。

外部リンク

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テンプレート:サウスダコタ級戦艦 (1939)