成帝 (漢)
生涯
甘露3年(前51年)、皇太子劉奭(後の元帝)と王政君の長男として生まれる。この時期、父の劉奭は祖父宣帝の不興を買い廃嫡の瀬戸際であったが、後嗣である劉驁が生まれたため廃嫡は沙汰止みとなった。宣帝は後嗣誕生を喜び、劉驁に「太孫」(皇太孫という程度の意)という字を与えた。
元帝の崩御にともない即位、宣帝以来中書を担当し政治に多大な影響を及ぼしてきた宦官勢力の弱体化には成功したが、それに代わり外戚勢力、殊に生母・孝元皇太后(王政君)の実家・王一族が深く朝政に関与し、後の王莽による簒奪の要因となっている。
史書によれば成帝は酒色を好み、鴻嘉年間以降は武帝のように張放ら少数を供に連れ、「張公子」と名乗って[1]密かに城内に出て遊び歩くこともしばしばあり、士大夫層、外戚双方から問題視された。このような成帝に入内したのが趙飛燕、趙合徳[2]姉妹であった。成帝は当初皇太子時代からの妃で皇后である許誇を寵愛し、臣下から子孫繁栄のため他の妻妾にも目を向けるようにと諫言されるほどであったが、後に寵愛は衰え皇后を廃位している。後に趙姉妹の姉は皇后に、妹は昭儀となり、成帝の寵愛を独占した。趙姉妹は寵愛が他に移ることを防ぐために、成帝が他の后妃などとの間に儲けた皇子を殺害した。まもなく趙飛燕は成帝の寵愛を失うが、今度は妹の趙合徳に寵愛が向けられた。
実子がいなかったため甥に当たる劉欣(後の哀帝)を皇太子に立てた翌年の綏和2年(前7年)、成帝は崩御した。突然の崩御であったため、崩御直前まで共にいた趙合徳が原因との流言が生まれ、皇太后王氏が詳細を調査しようとしたが趙合徳は自殺してしまう。皇后であった趙飛燕は哀帝が即位すると皇太后となるが、成帝の皇子を殺害していたことが発覚しその権力は表面的なものとなった。
成帝の治世前半は大司馬大将軍領尚書事王鳳が権力を掌握し、後半は外戚の王氏と丞相翟方進ら官人間の政治闘争が継続したものであった。また地方では小規模ながら叛乱が頻発するなど、漢朝の統治力の低下が明らかになり、その末年には翟方進・何武らによる制度改革が行なわれているが、衰勢の漢朝を復興することはできなかった。
飛燕外伝
稗史である『飛燕外伝』は成帝と趙飛燕の関係を描写した一種の小説であり、史実を忠実に反映したものとは言えないが、後世に対し成帝の印象を決定付ける役割を果たしている。その内容によれば、趙合徳は成帝の寵愛を失わぬよう特殊な房中術を以って成帝に伝え、房事の最中に成帝は急死した。この死に不審を抱いて孝元皇太后のによって調査が行われた結果、趙合徳が成帝に精力剤を服用させすぎたことによる中毒死と判明し、その責任を取るため趙合徳は自殺に追い込まれた。自殺直前に趙合徳は我が身で皇帝に仕え、過分な寵愛を受けもはや思い残すことは無い(「私は帝王を股間に弄した。女の本懐、これに優るものはない」)と述べ毒を仰いだとされている。
成帝落胤騒動
始建国(10年)、新の立国将軍の孫建の馬車の前に登場した武仲なる人物が、自ら成帝の落胤である劉子興であると述べ、これに激怒した孫建に捕らえられ処刑された事件がある。
また、新末頃に邯鄲で挙兵した易者の王郎も、成帝の落胤の劉子興と偽称するなど、趙姉妹が殺害したとされる皇子の中に、難を逃れた皇子が存在するという民間伝説がこの時期発生していたものと考えられる。
宗室
后妃
子
不詳