志道広良
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志道 広良(しじ ひろよし、応仁元年(1467年) - 弘治3年(1557年))は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。志道城主。受領名は上野介。志道元良の子で、弟に口羽通良(なお、通良は広良の子とする説もある)がいる。子に志道広長、坂元貞など。
生涯
毛利氏の庶家として、代々の毛利家当主を補佐していた坂氏の庶流で、父・元良の代から志道氏を名乗る。
毛利興元の代から毛利家執政を務めていたが、弟・元就の器量を早くから見抜き、親交を結んでいた。永正10年(1513年)には、17歳の元就が47歳の広良に差し出した起請文では、両者がよく協力しつつ、主君である興元に忠節を尽くすことを誓っている。広良が元就を並の人物では無いと見抜き[1]、年若い元就に起請文の提出を求めて一人前の武将に育て上げていったとされる[2]。
毛利興元と嫡子の毛利幸松丸が夭折した後、毛利元就とその弟・相合元綱との間で争いが起きると、元就を支持して、他の14人の宿老とともに署名した起請文を提出し、かつ足利将軍家の同意もいち早く取り付けた。その後元綱を擁立した宿老の坂広秀、渡辺勝の謀反はあったものの、元就に無事家督を相続させることに成功した。
本家筋の坂広秀が相合元綱を擁して謀叛した際には、元就方として鎮定する側にまわった。乱の後、次男の志道広昌に途絶えた坂氏の名跡を継がせて、本家を継承せしめた。そして以後は元就の軍師的な役割を、さらにはその子隆元の後見役を務め活躍し、91歳の長寿を保った。
1539年に嫡子の広長(ひろなが)に先立たれたため、嫡孫(広長の子)の志道元保が跡を継いだ。
逸話
- 元就から非常に信頼されており、「(隆元の周辺には)広良のような名宰相がいない」と語られている[1]。
- 毛利隆元に「君は船、臣は水」(家臣は水であり、その水が無いと船は浮かばない。また、水は簡単に船をひっくり返す。だからこそ君臣の関係は大切にしなければならない)と、主従関係を例えている。