張軌
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テンプレート:基礎情報 中国君主 張 軌(ちょう き 255年 - 314年)は、五胡十六国時代の前涼の創建者。
生涯
安定郡烏氏(現寧夏回族自治区固原の東南)で張温の子として生まれる。前漢初期の趙王張耳の17世孫に当たると伝わる[1]。
代々儒学を伝え、孝廉で知られる家庭に育つ。晋初に尚書郎・太子洗馬・散騎常侍などを歴任した。晋末の混乱のとき、河西のオアシス地帯が平穏で豊かなことに眼をつけた。301年、涼州刺史に任ぜられて赴任し、鮮卑族の叛乱を抑えて河西を支配した。
永嘉の乱において、王弥・劉曜らが洛陽・長安を攻めたときは、配下の北宮純率いる勤王の軍を派遣した。晋の侍中・太尉・涼州牧に上り、西平郡公に封ぜられた。乱を避けた中原の人士を受け入れて、武興郡を立てた。農業や学問を奨励し、涼州の士人を重用して、半独立の体制を保った。
生前は王を称することはなかったが、曾孫の張祚が帝を称すると武王と追尊された。
子女
子
脚注
- ↑ 『晋書』張軌伝では「常山王(の張耳)の子孫である」と記述されているが、『史記』や『漢書』では、「常山王」は項羽から与えられた地位であり、後に仕えた高祖劉邦から与えられたのは「趙王」と記述されているため、張軌自身が張耳の子孫かどうか疑わしいという説がある。
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