張軌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 中国君主 張 軌(ちょう き 255年 - 314年)は、五胡十六国時代前涼の創建者。

生涯

安定郡烏氏(現寧夏回族自治区固原の東南)で張温の子として生まれる。前漢初期の張耳の17世孫に当たると伝わる[1]

代々儒学を伝え、孝廉で知られる家庭に育つ。初に尚書郎・太子洗馬・散騎常侍などを歴任した。晋末の混乱のとき、河西のオアシス地帯が平穏で豊かなことに眼をつけた。301年涼州刺史に任ぜられて赴任し、鮮卑族の叛乱を抑えて河西を支配した。

永嘉の乱において、王弥劉曜らが洛陽長安を攻めたときは、配下の北宮純率いる勤王の軍を派遣した。晋の侍中太尉・涼州牧に上り、西平郡公に封ぜられた。乱を避けた中原の人士を受け入れて、武興郡を立てた。農業や学問を奨励し、涼州の士人を重用して、半独立の体制を保った。

生前は王を称することはなかったが、曾孫の張祚が帝を称すると武王と追尊された。

子女

脚注

  1. 晋書』張軌伝では「常山王(の張耳)の子孫である」と記述されているが、『史記』や『漢書』では、「常山王」は項羽から与えられた地位であり、後に仕えた高祖劉邦から与えられたのは「趙王」と記述されているため、張軌自身が張耳の子孫かどうか疑わしいという説がある。
先代:
前涼
301年 - 314年
次代:
張寔