廃刀令

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廃刀令(はいとうれい、明治9年3月28日太政官布告第38号)は、1876年明治9年)3月28日に発せられた「大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止」の太政官布告の略称。いわゆる帯刀禁止令のことである。大礼服着用者、軍人警察官以外の帯刀を禁じる内容であった。

概略

すでに明治2年1869年)頃から廃刀の議論は行われていた。明治2年(1869年)3月公議所が開かれたとき、制度寮撰修森有礼は佩刀禁止を提議した。「早く蛮風を除くべし」というものであったが、王政復古から間もない頃であったため公議人らは反対し、「廃刀をもって武士の精神を削ぎ、皇国の元気を消滅させるといけない」として否決された。明治3年(1870年)には平民のの帯刀を禁止し、明治4年8月9日1871年9月23日)には士族の帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発していた。そして、1876年(明治9年)3月28日、廃刀令を発布した。

発布の直接の因となったのは、1875年(明治8年)12月山縣有朋の建議が採用されたことである。長文の建議であるが、要するに、「従来武士が双刀を帯びていたのは倒敵護身を目的としたが、今や国民皆兵の令が敷かれ、巡査の制が設けられ、個人が刀を佩びる必要は認められないので、速やかに廃刀の令を出して武士の虚号と殺伐の余風を除かれたい」というものであった。

反発

禁止されたのは携帯であり、所有そのものは認められていたが、帯刀はもともと実戦的武備というより士族であることの身分象徴、証明としての意味合いが大きく、それを否定する事は、実質的な特権の否定である徴兵令および秩禄処分とともに武士(士族)のアイデンティティーの1つの否定であった。廃刀令に反発した士族は、刀を袋の中に入れて持ち歩いたり、刀を肩で担いで歩いたりした。また、一部の士族はこの廃刀令を含めた四民平等政策に反発し、士族反乱を起こした。

法令の沿革

太政官布告として布告された本法令は、その後も長らくこの状態を保っていたが、時間の経過につれ、次第に規定の実効性が喪失してゆくこととなった。実効性が喪失していった過程として、以下の事項があげられる。

警察官について
1946年昭和21年)の「警察官及び消防官服制」(昭和21年勅令第367号)で原則として佩刀を禁止された。
大礼服について
主に皇室令により規定されていたが、日本国憲法施行の際、これらは全て廃止された。
軍人について
第二次世界大戦敗戦した結果、大日本帝国陸軍大日本帝国海軍が解体され、旧来その対象とされていた軍人が存在しなくなった。

1954年(昭和29年)当時において既に実効性を喪失していると判断した政府は、「内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律」(昭和29年法律第203号)の本則第4号により本法を廃止することとした。結果本法令は、1954年(昭和29年)7月1日をもって廃止された。

関連項目

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