常磐津節
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常磐津節(ときわずぶし、ときわづぶし)は、浄瑠璃音楽の一種。日本の重要無形文化財。初代常磐津文字太夫(1709年-1781年)が延享4年 (1747年) に豊後節より創設した。江戸幕府によって禁止された豊後節を江戸化するなかで生まれてきた浄瑠璃の一種で、全盛期を迎えていた江戸歌舞伎とともに発展した。語りと唄との均衡が取れ、整然とまとめられた「落し」と呼ばれる旋律を持ち、この特徴から常磐津節は劇付随音楽として歌舞伎など舞踊劇になくてはならない音曲といわれる。
歴史
初代文字太夫は豊後節における心中ものを継承するとともに、意欲的に新作を生み出し、流儀の発展に大いに寄与した。また、この当時、太夫に初代文字太夫、造酒太夫、若太夫、三味線方に初世佐々木市蔵、初世岸澤式佐などの名人が輩出したこともあって、明和年間までには、後発の富本節と並び、常磐津は江戸の代表的な浄瑠璃となる。
- 初代が没したのち、天明7年 (1787年) に家元を相続した二代目文字太夫は、二代目岸澤式佐、鳥羽屋里長などの三味線方に支えられて大いに活躍し、後の興隆の基礎となる『関の扉』『戻駕』『双面』などの歌舞伎舞踊の曲を初演したことで知られる。またこの時期、二代目死後、遺児三代目文字太夫を補佐した三代目兼太夫などによって浄瑠璃の語り口に洗練が加えられ、これまでの古曲とは違った、当世流で瀟洒な味いが常磐津に生まれたことも逸することのできない改革である。
- 文化・文政時代に入ると江戸歌舞伎の繁栄はいよいよ頂点に達し、舞踏においても変化舞踏と呼ばれる新たな分野が登場する。常磐津はこの動きに敏感に反応し、『景清』『角兵衛』などの佳品を生むと同時に、長唄や富本などとも積極的に掛合を行うようになり、芸質の高まりを見せることになる。
- 幕末における常磐津は、四代目常磐津文字太夫(1804年-1862年、豊後大掾)と五代目岸澤式佐(1806年-1867年、古式部)という二人の名人によって完成期を迎える。文政年間から提携をはじめた二人は、常磐津の特色を生かしながら『宗清』『将門』『靱猿』『勢獅子』『三世相』などの傑作を残し、江戸三座でその芸を披露した。なお、安政年間より、三味線方の岸澤家が分派を興そうとする動きを見せ、長くその騒動が続いたが、昭和2年(1927年)の第一期常磐津協会発足により一応の和解を見た。現在でも常盤津の太夫・三味線方には、常磐津姓と岸澤姓とがある。
- 明治時代に活躍した常磐津林中(1842年-1906年)も名人としてその名を逸することができない。全浄瑠璃中第一の名手と謳われたその芸はまさに神技といえるもので、一時期相続のいざこざによって逼塞していたものの、九代目市川團十郎の誘いによって舞台に復帰するや、東京中の人気を博した。またこの時期には『釣女』『紅葉狩』のような能取物、そして『戻橋』のような新作によって曲目の充実が図られ、河竹黙阿弥と六代目岸澤式佐の提携により数々の傑作が生まれている。
近代の名人
代表的人物として、常磐津文字翁(1888年-1960年)、常磐津千東勢太夫(1916年-1978年)、常磐津菊三郎(1897年-1976年)らの名前を挙げることができる。
曲目
- 朝比奈釣狐(客罠娼釣髭)、
- 浅間(初桜浅間嶽)、
- 淡島(禿紋日雛形)、
- 粟餅(花競俄曲突)、
- 阿古屋(壇浦兜軍記)、
- 朝顔日記(生写朝顔話)、
- 明烏(明烏夢淡雪)、
- 善知鳥(紅葉傘糸錦木)、
- 老松
- お房徳兵衛(褄開袷羅衣)
- 女戻駕(姿花鳥居が色彩)
- お七(新煖房雛世話事)
- 願人坊主(七枚続花の姿絵)
- 蜘蛛の糸(蜘蛛糸梓弦)
- 源太(倭仮名色七文字)
- 子宝(子宝三番叟)
- 子別れ(夜の鶴雪ごろも)
- 関の扉(積恋雪関扉)
- 忠信(時鳥花有里、恋中車初音の旅)
- 伝授の雲竜
- 古山姥(四天王大江山入)
- 双面(両顔月姿絵)
- 戻駕(戻駕色相肩)
- 夕霧(其扇屋浮名恋風)
- 三勝半七(其常磐津仇兼言)
- 景清または水売(閏茲姿八景)
- 二人松若(都鳥名所渡)
- 式三番(祝言式三番叟)
- 太神楽(松色操高砂)
- 三ツ人形(其姿花図絵)
- 新薄雪(大和文字恋の歌)
- 八段目(其儘旅路の嫁入)
- 鴛鴦(鴛鴦容姿の正夢)
- 芥太夫(拙筆力七以呂波)
- 角兵衛(后の月酒宴島台)