島津重年

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島津 重年(しまづ しげとし)は、江戸時代島津氏第24代当主。薩摩藩の第7代藩主。初名は久門(ひさかど)。

経歴

加治木島津家時代

享保14年(1729年)2月、島津継豊の次男として鹿児島城で生まれ、同年11月25日に分家筆頭で、島津綱久の次男でもある加治木島津家当主島津久季の養子となった。幼名は善次郎。なお登免は天明年間まで生存していたが、継豊と登免との子は善次郎一人であった。

享保17年(1732年)に加治木島津家4代目当主となり、元文2年(1737年)に元服して、島津兵庫久門と称す。元文3年(1738年)に島津貴儔とともに、家格を一所持から、新設された一門家に改められる。その年のうちに、貴儔の異母弟の島津忠紀重富家を興すと、この家も一門家に列せられ、一門家筆頭格となる[1]。加治木島津家は一門家の席次は2番目であったが、3番目とされた垂水家が貴儔の代に限り一門家筆頭であったので、実質的には久門は3番目の席次であった。[2] しかしながら、久門は一門家の中では血統上、継豊や宗信に最も近い存在であった。

藩主時代

寛延2年(1749年)7月10日、兄の宗信が死去したため、幕府の許可をもらって本家に復帰し、その後を継いで藩主になった。なお、加治木家は長男の島津久方(のちの島津重豪)が継いだ。同年11月、従四位下。侍従に叙任され、薩摩守を称した。また、将軍徳川家重より偏諱を賜い、久門から重年に改名している。

寛延3年に藩政批判や人物批判をしていた実学派に対して「実学崩れ」という薩摩藩最初の学派弾圧事件がおこり、用人の皆吉続安ら遠島者10人を出す。

宝暦3年(1753年)に幕命により、木曾三川の治水工事宝暦治水)を命じられ、家老の平田靱負を総責任者とし多数の藩士が工事に従事したが、莫大な費用と殉職者80数名を出した。平田も完成を見届け、宝暦5年5月(1755年)に責めを負い切腹、翌月に重年も病弱の上に心労が重なり、27歳の若さで兄と同様に父に先立ち没した。

この前の宝暦4年(1754年)8月に長男・久方が(島津家宗家としての)父の跡を継ぐため本家に入り[3]「忠洪」と改名し、重年の死後10歳で藩主に就任したが、元服時に同じく徳川家重より偏諱を賜って「重豪」と改名した。

家族

  • 外祖父:島津久房島津光久17男、通称は主馬、求馬)
  • 久門時代の正室:都美(叔父・島津貴儔の娘、延享2年11月7日に、善次郎を産んだ後、死去。法号は正覚院貞範妙雅大姉)
    • 長男:島津重豪(善次郎、島津久方、島津宗家の嗣子になってから忠洪)
  • 継室:村(島津久尚の娘、宝暦4年2月2日死去。)
  • なお佐土原藩島津久柄室・梅(先妻・都美の妹)は重豪の養妹であるが、重年の死後に養妹になったために重年の養子というわけではない。ちなみに尚古集成館の『島津氏正統系図』では重豪の養妹であったことすら省略されている。

人物

  • 父同様に病弱な人物として知られるが、救仁郷善兵衛より剣術示現流を学ぶ[4]。同史料では薩摩藩主としては久しぶりに登場する人物である。

補注

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参考文献

  • 「加治木町郷土史」
  • 「示現流聞書喫緊録附録系図」
  • 「島津氏正統系図」
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  1. ただし、垂水家の貴儔の生存中は実質筆頭ではなかった
  2. ちなみに延享年間に島津忠郷今和泉島津家を興すと、この家が一門家最下位となる。
  3. 重年には久方(重豪)の他に子供がいなかったため、加治木家に関しては、これを継ぐものがいなくなり、島津久徴が継ぐまで当主不在となった。
  4. 「示現流聞書喫緊録附録系図」参照