島津立久
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島津 立久(しまづ たつひさ)は、室町時代の守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第10代当主。9代当主・島津忠国の次男。子に忠昌。幼名は安房丸、通称は又三郎。官位は修理亮、陸奥守。
父が文明2年(1470年)に死ぬまで守護であったため、立久が当主としての治世は4年間に過ぎなかったが、長禄3年(1459年)から守護的な活動は行っていたようである。
父と同じく日向の伊東氏と和睦をし、領内は平穏な日々が続いていた。琉球や李氏朝鮮とも交易を盛んに行っていた。応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こり、2年後には東軍の細川勝元に味方したが、勝元の出兵要請は拒否して出陣せず、名目上の東軍であった。一方、叔父の豊州家当主島津季久は西軍の山名宗全に味方していた。これは、応仁の乱に際して他の諸大名と同様に、どちらが負けても家が存続するようにしていたためである。
文明6年(1474年)、43歳で死去。嫡男の忠昌が後を継いだ。墓所は市来雲竜寺跡、福昌寺跡。