宣武帝
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テンプレート:基礎情報 中国君主 宣武帝(せんぶてい)は、北朝北魏の第8代皇帝。
生涯
皇太子だった長兄の元恂は、父・孝文帝が推し進める漢化政策に反対し、反乱を企てようとしたため、皇太子の地位を廃された挙句に父帝によって誅殺された、あるいは自殺した。そのため元恪が代わりに皇太子に立てられ、499年に孝文帝の死によって17歳で即位した。当初は、宗室で叔父の咸陽王・元禧(献文帝の次子で孝文帝の次弟)、尚書令の王粛らの補佐を受けたという。
在世中、しばしば梁を攻撃して四川方面に領土を拡大し、北方では柔然に大打撃を与えた。だが、熱心な仏教信者である故に、次第に仏教信仰に溺れた。501年(景明二年)、国政を側近や外戚の高肇に委ねて親政を始めた。やがて宗室を遠ざけたという。508年に高肇の進言で、皇族の長老である叔父の元禧とその末弟の彭城王・元勰、また異母弟の京兆王・元愉ら多くの皇族諸王を誅殺した。
父と同じく33歳の若さで崩御し、洛陽郊外に葬られた。
陵墓
テンプレート:出典の明記 陵墓は他の邙山陵墓群とともに、全国重点文物保護単位に指定されている。1992年に盗掘に遭ったため、遺跡保護のため緊急発掘された。版築で作られた円形の稜は径112メートル、高さ約23~24メートルあり、中心の地下にある方形の墓室から南に甬道が伸びている。延長線上の入口に当たる所に高さ4メートルの巨大な石人像があったが、盗掘により現在は首が失われている。