安芸国虎

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安芸 国虎(あき くにとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将土佐国国人

生涯

享禄3年(1530年)、土佐安芸郡の領主・安芸元泰の子として誕生。

安芸氏の祖先は蘇我赤兄とされ[1]、現・高知県安芸市域を拠点として土佐七雄の一角に数えられた。この安芸氏の慣例に倣い、土佐国守護を兼ねる室町幕府管領細川京兆家当主より偏諱細川高国より「国」の一字)を賜り、国虎と名乗る。

永禄年間前期、長宗我部元親の家臣・吉田重俊の守る香美郡夜須の領地に[2]、馬ノ上(安芸郡芸西村)の安芸軍が攻め込んだことから元親と敵対する。永禄6年(1563年)に元親が本山氏を攻めるために主力を率いて本山に向かうと、義兄の一条兼定から3000の援軍を得て5000の大軍で岡豊城へ攻め込むが、重俊の奮戦もあり敗退した。国虎は再度の出兵を計画し、元親もまた国虎を攻めようと画策したが、一条兼定の仲介により、永禄7年(1564年)に元親と和睦した。

永禄12年(1569年)4月初旬、元親は国虎に岡豊に来訪して友好を深めようと使者を派遣した[3]。これに対し国虎は使者の言葉を曲解して使者を追い返し[4]、重臣の黒岩越前の諫言[5]も聞かずに和睦を破り、義兄の兼定とともに元親を討伐しようとした。しかし元親は本山氏をすでに服従させて勢力を増強させており、7月に元親は7000の軍を率いて安芸領に侵攻。対する国虎も5000をかき集め、安芸城や支城の新荘城穴内城の防備を固めたが、八流の戦いで大敗して支城も悉く落とされた。国虎は安芸城に籠もって抗戦するも、譜代の家臣らの多くが元親に内応[6]して形勢は一気に不利になった。それでも24日間にわたって抗戦したが、兵糧も尽きて一条兼定の後詰も無く、城内の井戸に毒を入れられるなどの攻撃により落城寸前になったため、家臣と領民の命と引き替えに自害することを元親に申し入れた。さらに正室を土佐一条家に送り返して遺児の千寿丸を阿波国に落としたあと、8月11日に菩提寺の浄貞寺に入って自害した。享年40。このとき、重臣の多くが国虎の後を追って殉死した[7]

なお、その後、元親は安芸氏の旧臣をことごとく平定し、実弟の香宗我部親泰を安芸城に入れて安芸氏の名跡を継がせようとしたが、家臣に反対されたため安芸守を名乗らせたという。

その他

  • 2011年平成23年)より、高知県奈半利町・安芸市から京阪神への高速バスが開設され、国虎の名前を用いた「国虎号」の愛称が付けられた。

脚注

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参考文献

  • 出自に関しては他説も多い。
  • 夜須は安芸氏の領地だったが、永禄初期に両家の間で領有争いが起きていた。
  • 「先年不慮の事出来て、互に確執に及び候ひぬ。然りと雖も、戦国の習なれば、必ずしも是を始終の怨敵といふべきに候はず。殊更一条殿の御扱にて合体せしむる上は争でか宿意あるべき。然るに近年中郡の筝劇に依りて、終に会釈に能はず。猶隔意あるに似たり。近々岡豊へ御来臨候へ。対面を遂げ、互に天神地祇を驚かし、誓約を固くして、骨肉同胞の睦をなし、過失相親しみ、患難相救ひ候べし」(『土佐物語』)。
  • 「互に領分の境に出で誓約をなさんといははさもあらんか。然るに我を岡豊に来れとは降参せよとにや」と言い、家格や所領の優越を誇ったという(『土佐物語』)。
  • 黒岩越前は一条の援軍など頼むに足らず、しかも伊予西園寺氏と敵対しているので軍は動かせないと実情を説いたが国虎は無視した。
  • 安芸家譜略紗』では譜代の横山紀伊岡林将監専当氏専光寺右馬允小川新左衛門小谷左近右衛門らが裏切り、北の搦手から元親軍を導いたという。
  • 老臣の有沢石見が殉じたのをはじめ、諫言を無視された黒岩越前も正室を一条家に送り返したあとの国虎の初七日に自殺し、北川玄蕃は国虎の死後に元親の軍と戦って戦死した。