安東通季
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安東 通季(あんどう みちすえ、1564年(永禄7年) - 没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安東氏の家臣。安東茂季の嫡男[1]。通称は九郎[1]。道季とも表記する[1]。名字は湊、豊島とする史料もある。別の系図史料では高季ともあるが、これは後述する南部藩仕官後のもの。子に湊市郎右衛門季隆[2]。
天正7年(1579年)、父の死により豊島城主となる[1]。従兄弟の秋田実季が本家の当主を継いだことに不満を持ち、天正17年(1589年)、戸沢氏や小野寺氏と手を結んで反乱を起こした(湊合戦)。一時は実季を窮地に追い込んだが、やがて反撃を受けて乱は鎮圧され、通季は南部氏のもとへ逃れて、翌天正18年(1590年)、豊臣政権に復権運動をした[1]。復権失敗後は、蒲生氏、戸沢氏を経て後、慶長8年(1603年)南部氏の家臣となり湊修理亮高季を称した[1]。後に更に季政と改名したのではないかとする見解がある[3]。
通季の子孫に伝わっていた「八戸湊文書」は、通季甥で佐竹氏の家臣となった湊盛季の子孫に伝わる「市川湊家文書」とともに、安東氏のみならず中世北奥羽史研究上で重要な研究史料とされている[4]。
脚注
参考文献
- 遠藤巌 「<研究ノート>音喜多勝氏所蔵八戸湊文書覚書」『弘前大学國史研究』第107号,1999年10月30日,pp.38-53テンプレート:Asboxテンプレート:Japanese-history-stub