宇都宮興綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テンプレート:基礎情報 武士 宇都宮 興綱(うつのみや おきつな、永正11年(1514年)[1] - 天文5年8月16日(1536年9月1日))は日本の戦国時代の武将で、下野の宇都宮氏第19代当主。父は革新的な優れた能力を発揮して積極的に勢力を拡大し、宇都宮氏の全盛期を築き上げた英主・宇都宮成綱。第18代当主宇都宮忠綱・第20代当主宇都宮俊綱(尚綱)の弟。
経歴
旧来の系譜では、第16代当主宇都宮正綱の子で俊綱(尚綱)の父、享年62、と伝えられてきたが、宇都宮氏の系譜には忠綱・俊綱(尚綱)・興綱を兄弟とするものも存在していた(『群書系図部集』所収「宇都宮系図別本」・『系図纂要』所収「宇都宮系図」など)。この系譜を裏付けるものとして1524年に古河公方足利高基から上総武田氏一族の長南三河守に充てた書状[2]に「宇都宮事、名代若輩故、しかゞゝ共無之様候之間」と記され、当時の当主であった忠綱に代わって“若輩の名代(当主代行)”が擁立されたことが判明する。忠綱が当主を追放されて以降、興綱以外の人物が擁立された事実を示す史料もないことから、当時の興綱が少年であったことを示している。また、最初は芳賀氏の養子となって同氏を継いでいたと言われているが、これについても否定的な説もある[3][4]。
1523年、結城政朝が猿山合戦で宇都宮忠綱を破って宇都宮城から放逐した際に、忠綱の圧政に不満を抱いた芳賀高経ら反忠綱派の家臣と図って擁立された。だが、興綱が成人して独自の行動を取るようになると芳賀高経、壬生綱房と対立するようになり、やがてその争いに敗れた興綱は隠居を余儀なくされ、その後に自害した。享年23。
脚注
- ↑ 生年は『栃木県歴史人物事典』による。
- ↑ 「東京大学史料編纂所所蔵幸田成文氏旧蔵文書」・『戦国遺文』古河公方編543所収
- ↑ 現存する興綱の発給文書の最古は大永8年(1528年)であり、それ以前の宇都宮氏当主時代は勿論、芳賀氏当主としての文書は一通も現存していない。
- ↑ 江田、2012年、p.245-246・249-253