学校法人フェリス女学院
学校法人フェリス女学院(がっこうほうじんフェリスじょがくいん)は、神奈川県横浜市中区山手町にある学校法人。フェリス女学院中学校・高等学校とフェリス女学院大学を設置する。
沿革
元々はジェームス・カーティス・ヘボンにより横浜で設立された私塾(ヘボン塾)の教師であった宣教師のメアリー・キダーが、ヘボン塾の女子生徒を受け継ぐ形で1870年6月1日にフェリス・セミナリーを設立した。「フェリス」という名前はメアリー・キダーを送り出した、外国伝統局総主事であるフェリス父子[1]の名からとった
1881年(明治14年)に入りメアリーとエドワード・ローゼイ・ミラー夫妻は伝道に専念するために、後継者を求めた。そこで、病気で横浜に療養に来ていたユージーン・ブースに話が持ちかけられて、1881年12月にブースが2代目校長に就する。1890年代になると国家主義的風潮で生徒が激減し、高等科を廃止した。1899年私立大学令により、私立大学として認可され正式名称がフェリス英和女学校になる。高等科の代わりに聖書科を置く。
1903年(明治36年)には高等女学校卒業者のために英語師範科を設置する。さらに、専門学校課程に準ずる神学部と英文学部からなる高等科を設置する。しかし、1919年(大正8年)には東京女子大学設立に協力する形で高等科を廃止する。このように、ブースは1922年(大正11年)まで校長としてフェリス女学院の発展に尽くす。
1922年(大正11年)、アメリカ・オランダ改革派教会の婦人宣教師J・M・M・カイパーが第3代目校長になる。1923年(大正12年)関東大震災に被災し校舎は壊滅し、カイパー校長は殉職する。殉職したカイパーの代務者として明治学院のアルバート・オルトマンスがフェリスの院長を一時的に兼務する。1924年にルーマン・シェーファー(Luman J. Shafer)が校長になる。そして、中等教育を中心に行う。1927年(昭和2年)には専門学校入学者検定規定による指定校になる。1929年シェーファーが辞任する。
1940年(昭和15年)都留仙次が校長になる。戦時中には英語名を避けて横浜山手女学院に校名を変更する。このように困難な時代を切り抜ける。戦後校名をフェリス女学院に戻す。1951年には都留が口語訳聖書の翻訳に専念するために院長を辞任する。[2]
なお女子学院中学校・高等学校と共に、日本初のキリスト教主義学校女学校である。当初は受け継ぎの関係で男女共学であり、女子教育に専念したのは1871年の9月からである。
理念
フェリス女学院はキリスト教育に基づき、「For others」をモットーにしている。
これは『めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。』(新約聖書「フィリピの信徒への手紙」第2章第4節)に由来し、学校行事の折々にこの一節についての話がある。
中学校(高等学校と6年間一貫教育)は、女子では難関の部類に入る進学校である。高校からの募集はしていない。
脚注
- ↑ (アイザック・フェリス(1798年10月9日-1873年1月16日))とジョン・メイソン・フェリス(1825年1月17日-1911年1月30日)『日本キリスト教歴史大事典』1191頁
- ↑ 『日本キリスト教歴史大事典』890頁
参考文献
- 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年