嘉吉の内紛
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嘉吉の内紛(かきつのないふん)は、1442年(嘉吉2年)から1443年(嘉吉3年)にかけておきた岩城氏の内紛。国人領主・土豪・地侍層をも巻き込んだ。
岩城隆忠は岩城左馬助一族の内紛に介入し、左馬助を自害させた。左馬助の弟清隆は隆忠の支援を受けて跡を継いだ。このとき、隆忠と清隆側についたのは三坂・飯野・大館・小河・中山・白土・好嶋・上遠野・瀧・窪田の諸氏である。これに対して、左馬助側についたのは玉山・中塩・下平窪氏らであった。また、この内紛に際して、白河結城氏は隆忠・清隆側を、石川氏は左馬助側を支持したと思われる。これにより、白河結城氏は菊多庄や岩城郡の一部の支配権を握った。左馬助・清隆兄弟は岩城氏の嫡流であったと推定され、この内紛で発言力を得た岩城隆忠(あるいはその子親隆)が、1460年代に清隆系の嫡流を圧倒して岩城氏の惣領となっていったと考えられている[1]。
脚注
- ↑ 垣内和孝「戦国大名岩城氏の誕生」(初出:『福島史学研究』69号(1999年)/所収:垣内『室町期南奥の政治秩序と抗争』(岩田書院、2006年))