和泉修

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和泉 修(いずみ しゅう、1962年6月14日 - )は、日本お笑いタレントであり、お笑いコンビ・ケツカッチンの一人。本名・釘田 修吉(くぎた しゅうきち)。

鹿児島県生まれ、大阪府泉南郡南海町(現・阪南市)育ち。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。身長182cm(ケツカッチンの公式プロフィールでは181cmと表記)。

来歴・人物

1981年浪速高等学校、1986年同志社大学文学部文化学科国文学専攻(現・国文学科)卒業。卒業論文題目は「古代天皇とコトムケ -古事記におげる闘争の伝承を中心として-」[1]

1984年6月、大学の先輩である清水圭とお笑いコンビ「圭太・修吉」(後の清水圭・和泉修、略称は圭・修)を結成し、吉本興業に所属。コンビ結成から吉本期待の若手として将来を嘱望されていた。その後、圭が活動の拠点を東京へ移し、修もピンで活動。大学の修士課程で学びながら芸能活動を続ける。

2001年9月18日、圭・修を解散し、ベイブルース高山知浩(現・高山トモヒロ)とお笑いコンビ「ケツカッチン」を結成。

芸人を志す前は、アマチュアボクシングの一流選手だった。高校時代にはインターハイフェザー級で優勝し、大学時代にはキングスカップ全日本代表に選出され、ロスオリンピック候補選手になるなどの経歴を持つ。フェザー級の常識を越えた長身とリーチで相手を圧倒し、数々の勝利を手にした。

芸能界である程度の地位を築いた後の1990年にはウェルター級でプロデビューし、2試合を闘った(2戦2勝、共に判定勝ち)が、長期ブランクや年齢の影響、体重がベストウェイトからほど遠かったこともあり、その試合内容はアマチュア時代の彼を知る者の目には無惨なものに映った。しかし、修は芸能界において初心に返るためという目的意識のもと、プロボクシングに挑戦したのであり、テンプレート:独自研究範囲。なお、浪速高等学校でのボクシング部の先輩に赤井英和がおり、赤井とは長年の交友がある。赤井の世界タイトル挑戦試合ではセコンドの手伝いをした。この試合のテレビ中継で行われた試合前の控え室レポートにおいて、修の小指を自分の鼻の穴に突っ込んで鼻くそをほじくる赤井の姿が映し出されている。赤井の芸能界入り後は、『なにわ友あれ赤井英和』(毎日放送)ほか数々の番組で共演している。

また、1994年に参戦した『ラスタとんねるず'94』(フジテレビ)のジャイアント将棋でプロ格闘家に対してたびたび大金星を挙げ、とんねるずから「史上最強の芸人」とあだ名され、それから数年の間自ら「史上最強の芸人、和泉修です」と名乗っていた。当初は第6局で渡辺二郎が欠場したための代役だったが、ここでの好成績が認められ、そのまま第7局・インテグラルにも参戦。ボクシング対決だけでも3勝1敗の成績を残している。

2000年に母校の同志社大学大学院総合政策科学研究科に入学し、2004年3月修了。2009年には同志社大学大学院博士後期課程総合政策科学研究科に入学。

2005年4月1日、大阪産業大学人間環境学部の客員講師に就任し、2007年には大阪国際大学経営ビジネス学部の客員教授に就任した。

2005年11月12日、『ゲツキン!』(読売テレビ)で北朝鮮に泳いで渡った元オウム真理教信者の北川和美について「あんなに黙っとったら使いもんにならんで」とコメントしていた。

2007年6月13日夜に男児が誕生した。「嫁に似て欲しかったのですが、僕似です。“僕より一歩先を行く”、正しい男になって欲しいです」とコメントしている。

2011年、奈良県奈良市に足識食癒施術法サロンを開業した。

現在のレギュラー番組

過去のレギュラー番組

書籍

  • 足ツボ健康法 健康で長生きできれば思うツボ(青心社、ISBN 4-87892-335-0(ISBN-13 978-4-87892-335-7))

脚注

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外部リンク

  • 「同志社大学国文学会彙報」『同志社国文学』27号 1986年3月 同志社大学国文学会発行