恵帝 (西晋)
テンプレート:基礎情報 中国君主 恵帝(けいてい)は西晋の第2代皇帝。生まれつき暗愚であり、西晋に混乱をもたらした。
生涯
初代皇帝武帝の次男[1]であったが、兄の司馬軌が夭折したため後継者に早くから指名されていた[1]。
泰始2年(267年)1月に立太子される[1]。武帝は太子の司馬衷が暗愚であるということを改めて知り、廃太子を考えた。そこで、武帝は尚書の仕事を司馬衷にやらせることにした。この時、司馬衷の妃であった賈妃が、他人に代筆させて仕事を終わらせた(あまりに出来が良過ぎると代筆が露見するので、ぎりぎり及第点の文章を書かせたともいう)。これにすっかり騙された武帝は司馬衷を廃嫡しようとは考えなくなった。または騙されなくとも太子の側室の謝夫人が産んだ孫の司馬遹(愍懐太子)がいるので、希望の星である孫の繋ぎ役として太子のままにしたともいわれる[1]。
太熙元年(290年)4月に武帝が崩御すると即位した[2][3]。即位しても恵帝は相変わらず暗愚であったため、実際の政治は、武帝の皇后であった楊太后の一族の楊駿が執り行なうようになる[2][3]。しかし、皇后となった賈氏の一族が実権を奪おうとした。結局永平元年(291年)3月に賈后が楊太后の一族とその与党を粛清した[2][3]。さらに、その後政治を行なった汝南王司馬亮と重臣の衛瓘を楚王司馬瑋に殺害させ、6月に罪を司馬瑋に着せて殺した(広義にはここから八王の乱が始まったとされる)。この結果、賈后は実力者を一掃して実権を握った。その後、数年間は賈后の一族の専横の下、皇族の中で最も自制していた高密王司馬泰と下邳王司馬晃や名士張華の補佐を受け、波乱多き恵帝の治世にしては安定した時期を迎える[2][4]。
元康6年(296年)1月に司馬晃が死去した。8月から秦州・雍州で斉万年の乱が始まった[5]。元康7年(297年)7月に戦乱と異常気象に関中で大飢饉が起きた。元康8年(298年)1月、詔により雍州の飢えた人々に食料が与えられた。元康9年(299年)1月、斉万年の乱が終息した[5]。6月に司馬泰が死去した。
賈后は皇太子の司馬遹が自分が産んだ子ではないことを気にして、元康9年(299年)12月に司馬遹を廃太子し[4]、金墉城にその3人の皇子らと共に幽閉した。同時に司馬遹の母の謝夫人は殺害された。そして、元康10年(300年)3月に司馬遹は賈后の手により23歳で殺害された[4][6]。
これに対して、同年4月に趙王司馬倫が賈后を殺害し[4]、反対派を粛清し、自ら相国となる。これが八王の乱の始まりである。5月に皇太孫に司馬臧が、11月に皇后に羊献容がそれぞれ立てられた。永康2年(301年)正月に司馬倫は恵帝に迫って譲位させた[4][6]。恵帝は太上皇とされ[4]、金墉城(この時永昌宮と改称された)に幽閉された[4]。なお、皇帝経験者で上皇の称号を贈られたのは、恵帝が最初である。皇太孫の司馬臧は殺された。
4月、斉王司馬冏らによって司馬倫が殺害され[6]、恵帝が復位した[4]。その後も皇族らの争いは長く続き、恵帝は、実権を握る皇族らの駒としかならなくなっていった。光熙元年(306年)11月、洛陽の顯陽殿にて、餅を食べて食あたりのため48歳で崩御した。或いは東海王司馬越に毒殺されたのだともいう。遺体は太陽陵に埋葬されたという。
八王の乱は恵帝の死の翌月、司馬越が新帝として恵帝の異母弟の司馬熾を擁立する事で収拾された[4]。
人物・逸話
恵帝の暗愚さを示す逸話として、民衆が穀物がなくて飢えている時に、恵帝は「(穀物がないのならば)肉粥を食べればいいではないか(何不食肉糜)」と言ったと伝えられている[1]。また、八王の乱において多数の詔書が出されたが、その多くが偽詔であるいは自筆とは言え賈后ら周辺の意向で書かされたものであった。その証拠に司馬倫が作成させた偽詔を奉じて司馬冏が賈后を逮捕に訪れた際に、詔書によって賈后を逮捕しに来たことを告げた司馬冏に対して賈后が「詔勅はこの私から出る筈である。(私の手を経ないものが)どうして詔勅であることがあろうか」と反論したと伝えられている(『晋書』巻31后妃伝・恵賈皇后伝)[7]。
また、武帝の存命中に衛瓘は宴席で、その前に跪いて武帝の座っている所を叩きながら、「(後に司馬衷が座る事になるなら)この席が惜しゅうございます」と嘆いたと伝わる[1]。
ただし、暗君といわれる恵帝にも救いのある逸話もあった。建武元年(304年)7月、皇族の乱に巻き込まれた侍中の嵆紹が恵帝を庇って、反乱軍によって斬り殺された。この時恵帝も頬に傷を負っている。その時に嵆紹の血が恵帝の衣装を汚したために、重臣が衣装を取り替えるべく進言した。だが恵帝は「これは朕を守って死んだ嵆侍中の尊い血である。そのままにせよ」と言ったという。この逸話から、北宋の司馬光は実は恵帝は暗愚ではなく、暗愚を装っていたのではないかと擁護論を唱えている。
宗室
妃后
子女
- 愍懐太子司馬遹
- 謝夫人の子
- 河東公主
- 臨海公主
- 始平公主
- 哀献公主
- いずれも賈南風の娘
在位中の年号
- 永熙(290年4月-12月)
- 永平(291年1月-3月)
- 元康(291年3月-299年末)
- 永康(300年-301年4月)
- 永寧(301年4月-302年11月)
- 太安(302年12月-303年末)
- 永安(304年1月-7月)
- 建武(304年7月-11月)
- 永安(304年11月-12月)
- 永興(304年12月-306年6月)
- 光熙(306年6月-12月)崩御は11月だが、次帝による改元は翌年正月。
西暦の後の月は、すべて旧暦である。
脚注
注釈
引用元
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P54
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P57
- ↑ 3.0 3.1 3.2 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P47
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 4.8 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48
- ↑ 5.0 5.1 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P117
- ↑ 6.0 6.1 6.2 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58
- ↑ 福原啓郎『魏晋政治社会史研究』京都大学学術出版会、2012年 P218-219・246-247
関連項目
- フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したとされたため、両国の歴史を知る者からは、恵帝との類似性を指摘される事がある。ただし恵帝の場合とは違い、彼女のこの発言は実は全くの冤罪であり、信頼できる史料からはこのような発言があったという記録は存在しない。
- その事から逆に、恵帝の逸話がフランスに伝わり、これが元になったのではないかという説も唱えられているが、信憑性に乏しい。ジャン=ジャック・ルソーが著書『告白』(1766年頃執筆)の中で、とある大公婦人の発言として挙げたものが、マリー・アントワネットの発言とされたというのが有力な説である。
- 江戸時代の旗本。町奉行を務めた時、天明の大飢饉が発生。この時「米が無いなら犬を食え」と発言し、町民の怒りを買い打ちこわしに発展、罷免される。当時の日本においては犬肉は米よりも下等な食材であり、恵帝の世間知らずの発言とは異なり、これは民衆に過度の窮乏生活を強いる発言である。