古典派経済学
古典派経済学(こてんはけいざいがく、classical economics)とは、18世紀後半から19世紀前半におけるアダム・スミス、トマス・ロバート・マルサス、デヴィッド・リカード、ジョン・スチュアート・ミルなどのイギリスの経済学者に代表される労働価値説を基礎とした経済学のこと。
経緯
古典派経済学以前には(金銀の)国際収支論を展開したジェラルド・ド・マリネス、エドワード・ミッセルデン、トーマス・マンなどに代表される重商主義の経済学が存在した。
古典派経済学以後にはアルフレッド・マーシャル、レオン・ワルラスなどの限界効用論を基礎としたオーストリア学派やローザンヌ学派、ケンブリッジ学派を代表とする新古典派経済学が経済学の主流となる(特にアルフレッド・マーシャルに始まるケンブリッジ学派のみを指して新古典派経済学とする場合もある[1])。また、古典派経済学の中心的な考え方であった労働価値説は、古典派経済学への批判として生まれたマルクス経済学に受け継がれることになった。
古典派経済学の変遷
「古典派経済学」とは、研究者によって多少の見解の違いはあるものの、1776年に「国富論」を発表したアダム・スミスから、デヴィッド・リカード(1772-1823)までの経済学を指す言葉である(J.S.ミルやトマス・ロバート・マルサスを考慮すべきとも言われる)[2]。1870年代前半に起こったレオン・ワルラスらの限界革命を基礎として誕生したオーストリア学派やローザンヌ学派、ケンブリッジ学派は(広義の)新古典派経済学と呼ばれる(狭義にはケンブリッジ学派のみを新古典派とする場合もある)。また、マルクス経済学はこの時代の古典派経済学への批判から生まれた[3]。その後の新古典派経済学への批判からはケインズ経済学が生まれている。
この古典派経済学の時代、つまり1770年後半から1870年代前半の限界革命以前の古典派経済学がその分析の基礎においているのは「労働価値説」という考え方である[4][3]。労働価値説には支配労働価値説(ある商品の価値が、それを支配する他の商品の量によって決定されると言う説)と投下労働価値説(ある商品の価値が、その商品の生産に投入された労働量によって決まると言う説)という2種類のものがある[3]。この考え方は古典派経済学者のリカードやマルサスに至るまで古典派の考え方の基礎であり続けた。また、古典派経済学は経済社会を「資本階級」「労働者階級」「地主階級」の3つの階級に分けて、これを中心に分析をしている[2]。この背景としては、当時の時代が急激に変化した時代だったということが指摘されるだろう。19世紀から20世紀には大工場を所有する産業資本家が労働者を雇い、利潤の目的を目指して労働者が商品を生産するという資本主義という経済体制が封建社会から産声を上げた時代であった。18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業革命が社会に広範な影響を与えはじめた時代の変化は、非常に急激なものであり、その時代にあった経済学が求められた。このような時代のさなかに始まったのがアダム・スミスに始まる古典派経済学である。1776年に国富論において「見えざる手」という概念が古典派経済学者のアダム・スミスによって考えだされた。すなわち、個人が自由な市場において、個々の利益を最大化するように利己的に経済活動を行えば、まるで見えざる手がバランスを取るかのように、最終的には全体として最適な資源の配分が達成されるというものである(ただし、前提として市場が完全競争市場である必要がある)。この「見えざる手」は、現在では「価格メカニズム」と呼ばれる。見えざる手は、日本では「神の見えざる手」と紹介されることもある。しかし、アダム・スミス自身は「Invisible hand(見えざる手)」という言葉を使っており、国富論の原文には「神の(of God)」という部分はない。
アダム・スミスは、国家の富とは「生活の必需品と便益品」つまり消費財であると考えた[5]。またこの消費財は労働によって作られるのだと考えた。また、その富とは、蓄積された財(ストック)ではなく、年々消費される「フロー」であると位置付けた[5]。また、重農主義者であるフランソワ・ケネーの自由放任(レッセ・フェール)の考え方は、アダム・スミスに影響を与えた。スミスはこの富は農地や資本設備に投下された労働によって生み出されると考えた。これは労働価値説、あるいは投下労働価値説というものである。また、スミスは、商品の価値はその商品で購買あるいは交換できる他の商品の労働量に等しいという支配労働価値という考え方も紹介している。そして、国富は労働者、地主、資本家の間で、賃金、地代、利潤という形でそれぞれに分配されると考えられ、ここから、「価値というものが賃金、地代、利潤の3つに分解できる」という考え方に発展した[6]。これがスミスの「自然価格」というものである。価格というものは市場の需要と供給によって常に変動するものであるが、自然な状態にあるときの価格を持って中心価格とする考え方である。また、賃金の自然率・地代の自然率・利潤の自然率の3つによって構成されるのが自然価格(natural price)だというのが、自然価格の基本的な考え方である。
古典派の考え方の多くは、ジェボンズや、メンガー、ワルラスによって創始された限界効用学派によって置き換わることになった。この限界革命を基礎として誕生したオーストリア学派やローザンヌ学派、ケンブリッジ学派は(広義の)新古典派経済学と呼ばれる[7]。ただし、この3つの学派の経済学体系と課題が、それぞれ大きく異なるため、特にケンブリッジ学派(参考:アルフレッド・マーシャル)のみを指して狭義の新古典派経済学とする場合もある[8]。2014年現在では、学説的にはワルラス以降の一般均衡理論の流れを指すことが多い[9]。
古典派の理論
見えざる手の働き
名称
イギリス古典学派と呼ばれることもある。ジョン・メイナード・ケインズによれば古典派の用語を始めて用いたのはカール・マルクスであるという。マルクスは、資本論第1部資本の生産過程第1編商品と貨幣第1章商品第4節商品の呪物的性格とその秘密の註32において、klassischer politischer Ökonomieという表現を用いている。ドイツ語の直訳では「古典的政治経済学」とでもすべきであるが、一般に18、19世紀のPolitical Economy(英)、economie politique(仏)、politischer Ökonomie(独)などは「経済学」と訳出されることが多い。
資本論の副題も、Kritik der politishen Ökonomie であり、経済学批判と訳出されている。マルクスはこのklassischer politischer Ökonomieを、im Gegensatz zur Vulgärökonomie すなわち、俗流経済学と区別し、古典派経済学に属する経済学を、alle Ökonomie seit W. Petty すなわち、ウィリアム・ペティ以来の全ての経済学と理解している(verstehe ich unter)と述べている。
マルクスにとっての古典派はリカードをその典型としブルジョア的視野に留まるものを指すとする。ケインズはマルクスと同様にリカードを基準としながら、その追従者をも「古典派」に含める。そしてリカード経済学を受容したものとしてミル、マーシャル、フランシス・イシドロ・エッジワース、アーサー・セシル・ピグーの名を挙げる。また古典派の本質はセイ法則を前提とするところにあり、「一般理論は」それをくつがえすものであるとした[10]。
スミスを祖とし、リカードにおいて完成した経済学(投下労働価値説)を「古典経済学」とし、それにマルサステンプレート:要出典(支配労働価値説)、ミル(生産費説)を含めて「古典派経済学」と総称するのが通例である。マルクスは古典派経済学をブルジョア経済学であるとし自らの資本論は古典派に属さないとした。
古典派経済学の限界
テンプレート:出典の明記 古典派経済学は、イギリスの産業革命の勃興期を前提として成立したが、その後問題となった10年周期の恐慌やフランスの大規模な失業労働者に対する有効な処方箋を作成することができなかった。
主要な理論家
- 先駆者たち
- ウィリアム・ペティ - 「政治算術」を確立し国力の基礎として生産活動を重視。
- ジョン・ロック - 労働価値説の創始者。
- リチャード・カンティロン - 重農主義理論に立ち古典派の先駆となった。
- バーナード・マンデヴィル
- デイヴィッド・ヒューム
- ジェームズ・ステュアート - 『経済学原理』を著した「最後の重商主義者」。
- ジェームズ・ミル
- 古典派経済学者
脚注
- ↑ 新古典派経済学の諸潮流pp.162
- ↑ 2.0 2.1 白銀久紀「古典派経済学の特質(講義資料)」大阪市立大学データベース, pp.12
- ↑ 3.0 3.1 3.2 経済学原論 授業資料 島根大学
- ↑ 白銀久紀「古典派経済学の特質(講義資料)」大阪市立大学データベース, pp.14
- ↑ 5.0 5.1 新村聡(2009)「アダム・スミスにおける貧困と福祉の思想」岡山大学, pp.2
- ↑ 白銀久紀「古典派経済学の特質(講義資料)」大阪市立大学データベース, pp.15
- ↑ 新古典派経済学の諸潮流pp.162
- ↑ 新古典派経済学の諸潮流pp.162
- ↑ コトバンク 知恵蔵2014
- ↑ 『マクロ経済学I 「古典派経済学」の意味』神谷 傳造(平成11年4月15日) [1]