マケドニア王国
マケドニア王国(Μακεδονικό βασίλειο)は、紀元前7世紀に、現在のギリシャ共和国西マケドニア地方・中央マケドニア地方の全域と、マケドニア共和国南東部ドイラン・ボグダンツィ・ゲヴゲリヤ及び南西部レセン・オフリド各基礎自治体の一部、ブルガリア共和国ブラゴエヴグラト州のギリシャとの国境地帯、アルバニアのポグラデツ県・コルチャ県・デヴォル県の一部にまたがる地域に誕生した歴史上の国家である。
歴史
成立からコリントス同盟まで
紀元前7世紀頃、建国されたといわれる。ギリシア人であることを主張し、古代オリンピア競技の祭典にも参加していた。マケドニアは、王が一夫多妻制を取るなど、ギリシアの他の地域とは違う制度を有していたようである。
ギリシアとペルシアの中間に位置したマケドニアは、ペルシア戦争ではアレクサンドロス1世の指導のもと、ペルシア側についた。しかし戦後、ギリシア地域へのペルシアの影響力が後退すると、政策をギリシア諸国寄りに転換し、同盟を結んだり、人質を有力国へ送ったりして、友好を図った。
アレクサンドロス1世の子に当たるペルディッカス2世の時にペロポネソス戦争が起きたが、マケドニアはこれに参戦せず、領土を拡張しつつ、国内を整備して国力の向上に努めた。またそれまでアイガイ(現ヴェルギナ)にあった都を、やや北方のペラに移した。ペルディッカスの子テンプレート:仮リンクは積極的にギリシア文化の受容を図ったが、これは文学などの受容にとどまり、社会体制の変革を伴うものとはならなかった。
紀元前399年、アルケラオスは暗殺された。この後、王位継承争いが起きるとともに、イリュリアからの攻撃をたびたび受け、国内は長く安定しなかった。紀元前359年、ピリッポス2世が兄ペルディッカス3世の戦死を受け、マケドニア王に即位した。当時の強国の一つだったテーバイに3年の間人質として滞在し、その政治や軍事を学んだピリッポス2世は、ギリシア文化を積極的に取り入れ、国政の改革や国力の増強に努めた。そして紀元前338年、カイロネイアの戦いでアテナイやテーバイからなるギリシア連合軍に勝利し、翌紀元前337年には全ギリシアを統一するテンプレート:仮リンク(テンプレート:Lang-grc - Hellenikos - ヘラス同盟)を結成し、その盟主となった。
アレクサンドロス大王の時代
紀元前336年、ペルシア遠征を計画していたピリッポス2世が暗殺されると、その息子アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)があとを継いだ。アレクサンドロス大王は紀元前334年アケメネス朝ペルシアへの遠征を開始し、紀元前333年のイッソスの戦いでペルシア王ダレイオス3世の軍を打ち破り、アルベラ・ガウガメラの戦いで再びダレイオス3世率いるペルシア軍を撃破し、ペルシア征服を実現させる。
ペルシアの征服に成功したのちもアレクサンドロスの東方への遠征は続き、インドの外辺まで支配下に治めた。この世界帝国の実現によって、ギリシアの文化や考え方が各地へと広まるだけでなく、東西文化の交流や民族の融合が盛んになった(ヘレニズム)。
内紛と分裂
紀元前323年、アレクサンドロス大王が後継者を決めないまま急逝すると、配下の将軍たち(ディアドコイ)によるディアドコイ戦争が勃発した結果、大王の直系は断絶した。ヨーロッパ側領土にはカッサンドロス朝(en)マケドニア、リュシマコス朝(en)トラキアが立ち、アンティゴノス朝が小アジアに拠り、三者の争いの中でアンティゴノス朝が生き残った。アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアの3王国が成立し、帝国は三分割された。
古代ローマの属州に
その後マケドニアは、地中海世界に勢力を拡大するローマの圧力に直面することとなった。テンプレート:仮リンク(紀元前214年 - 紀元前205年)では勢力を保てたものの、テンプレート:仮リンク(紀元前200年 - 紀元前196年)に敗れたのち、第三次マケドニア戦争(紀元前171年 - 紀元前168年)の敗北によって、マケドニア王ペルセウスは捕虜となり廃位、アンティゴノス朝は廃止させられ、王国は4つの共和国に分割された。第四次マケドニア戦争(紀元前149年 - 紀元前148年)での反乱がローマに鎮圧されると、紀元前148年ローマの属州の一つ(マケドニア属州)として組み込まれたことで、マケドニア王国は滅亡した。