千代田 (空母)
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空母 千代田 | |
艦歴 | |
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起工 | 1936年12月14日呉工廠 |
進水 | 1937年11月19日 |
就役 | 1938年12月15日水上機母艦として竣工 1943年空母へ改装 |
その後 | 1944年10月25日喪失 |
除籍 | 1944年12月20日 |
性能諸元 (空母改装時) | |
排水量 | 基準:11,190トン 公試:13,600トン |
全長 | (水線長:185.93m) |
水線幅 | 21.5m |
全幅 | |
吃水 | 7.51m (公試状態) |
飛行甲板 | 長さ:180.0m x 幅:23.0m エレベーター2基 |
主缶 | ロ号艦本式缶4基 |
主機 | タービン2基、ディーゼル2基2軸 56,800hp |
速力 | 29.0ノット |
航続距離 | 18ktで11,810浬 |
乗員 | 785名 (967名の資料もあり) |
兵装 (改装時) |
40口径12.7cm連装高角砲4基 25mm3連装機銃10基 |
搭載機 | 艦戦21機 艦攻9機 合計30機 補用機なし |
千代田(ちよだ)は日本海軍の千歳型水上機母艦の2番艦。後に航空母艦へ改装された。
概要
1938年(昭和13年)に水上機母艦として竣工した。本艦の場合、水上機母艦としての役割に加えて、甲標的(特殊潜航艇)母艦としても使用できるように設計・建造された。艦内に合計12隻の甲標的を搭載可能であり、その場合でも12機の水上機を搭載可能になっていた。また、走行中に艦尾両舷の滑り台より甲標的を発進できるという構造となっていた。
ミッドウェー海戦で4隻の正規空母を失った日本海軍は、空母不足を解消するため軽空母に改装することを1942年(昭和17年)6月30日に決定する。空母への改装は1943年(昭和18年)2月1日より開始された。空母改装に際しても、複雑な構造が災いして約10ヶ月の改装期間を要したが、同年12月1日に空母として改装が完了した。空母改装後は第三航空戦隊に所属し船団護衛に従事、1944年(昭和19年)6月のマリアナ沖海戦にも参加した。
1944年(昭和19年)10月25日、レイテ沖海戦でアメリカ海軍機動部隊の艦載機による攻撃で航行不能になり、艦隊から落伍。米第38任務部隊から分派され追撃してきたデュポーズ隊に捕捉されてしまい、米重巡洋艦「ウィチタ」(USS Wichita, CA-45) 以下の攻撃を受け16時40分、左に転覆後沈没した。艦長 城英一郎大佐以下乗組員全員が艦と運命を共にした。
要目
水上機母艦時代の要目は千歳型水上機母艦を参照のこと。
艦歴
- 1936年(昭和11年)12月14日 - 呉海軍工廠にて起工
- 1937年(昭和12年)11月19日 - 進水
- 1938年(昭和13年)12月15日 - 竣工
- 1940年(昭和15年)〜1941年(昭和16年)- 特殊潜航艇母艦に改造
- 1942年(昭和17年)6月 - ミッドウェー海戦に参加
- 1943年(昭和18年)1月16日 - 横須賀海軍工廠にて空母への改装工事開始[1]
- 1944年(昭和19年)6月19日-20日 - マリアナ沖海戦に参加
歴代艦長
艤装員長
- 水井静治 大佐:1937年11月20日 -
艦長
- 水井静治 大佐:1938年9月10日 -
- 加来止男 大佐:1938年12月15日 -
- 横井忠雄 大佐:1939年11月15日 -
- 原田覚 大佐:1940年8月20日 -
- 別府明朋 予備大佐:1943年1月9日 -
- 城英一郎 大佐:1944年2月15日 - 10月25日戦死
同型艦
脚注
参考文献
- 長谷川藤一『軍艦メカニズム図鑑 - 日本の航空母艦』グランプリ出版、1997年。
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第4巻 空母Ⅱ』光人社、1989年。