傅僉
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傅 僉(ふ せん、216年 - 263年)は、中国三国時代の蜀漢の武将。父は傅彤。子は傅著・傅募。
経歴
263年、魏軍が大挙して蜀に攻め込んできた時、蒋舒と共に陽安関を守っていた。魏の鍾会軍の先鋒胡烈が陽安関を攻めた時、蒋舒が胡烈に城を明け渡して降伏してしまったが、傅僉は戦って戦死した。
父と共に、蜀に忠義を尽くした人物として高く評価されている。
子らは罪を犯して卑民に落とされたが、後に父祖の功績で庶人として解放された[1]。
三国志演義
小説『三国志演義』では、剛腹の荒武者で、鉄扇と薙刀を愛用している。姜維に気に入られ北伐に従い、魏との戦いで活躍する。王真を生け捕り、李鵬を討ち取り、鄧艾も破っている。
魏軍が大挙して蜀に攻め込んできた際、部下の蒋舒と共に陽平関(正史では陽安関)を守る。鍾会が陽平関に押し寄せた際、蒋舒は守りを固めるべきだと進言するが、聞き入れずに関を出て迎え撃ってしまう。このため、蒋舒は鍾会に投降して陽平関を明け渡す事になる。傅僉は怒って奮戦するが力及ばず、最後は「蜀の臣として生まれたからには、死して蜀の鬼とならん」と言い、自刎して果てる事になっている。