伊達綱宗
伊達 綱宗(だて つなむね)は、陸奥国仙台藩第3代藩主で、伊達氏第19代当主。第2代藩主・伊達忠宗の六男。母は側室・貝姫。
生涯
隠居事件
幼名は巳之介。母が後西天皇の母方の叔母に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係になる。六男であったが、兄・光宗の夭折により嫡子となる。万治元年(1658年)、父・忠宗の死により家督を継ぐ。官位は従四位下。左近衛権少将。陸奥守。美作守。
しかし、綱宗自身は若年で家督を継ぎ、酒色に溺れて藩政を顧みない暗愚な藩主とされている。さらには叔父に当たる一関藩主・伊達宗勝(伊達政宗の10男で、忠宗の弟)の政治干渉、そして家臣団の対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされて幕命により万治3年(1660年)7月18日、不作法の儀により21歳の若さで隠居させられた(綱宗隠居事件)[1]。家督は綱宗の2歳の長男亀千代(後の伊達綱村)が継いだ[1]。この間の経緯であるが、池田光政(備前岡山藩主)、立花忠茂(筑後柳川藩主)、京極高国(丹後宮津藩主)ら伊達家と縁戚関係にある大名や伊達宗勝が相談しあい、幕府の老中酒井忠清に願い出て酒井に伊達家の家老らをきつく叱らせ、綱宗に意見してもらう事で一致したが、綱宗は酒井の強意見に耳を貸さなかったため、光政や宗勝らは7月9日に綱宗の隠居願いと亀千代の相続を願い出て7月18日に「無作法の儀が上聞に達したため、逼塞を命じる」との上意が綱宗に申し渡されている[1]。なお、7月19日には宗勝の命令で綱宗近臣の渡辺九郎左衛門・坂本八郎左衛門・畑与五右衛門・宮本又市の4人が成敗(斬殺)された[2]。
50年の余生
綱宗自身はその後、品川の大井屋敷に隠居して[2]、作刀などの芸術に傾倒していったといわれる。綱宗が酒色に溺れ、わずか2歳の長男・綱村が藩主となったことは、後の伊達騒動のきっかけになったのである。だが、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請けやつるし斬りなどは俗説とされる[3]。これに対して、綱宗は後西天皇の従兄弟であることから幕府から警戒されており、保身のために暗愚なふりをしていたとの説もある。実際綱宗は風流人で諸芸に通じ画は狩野探幽に学び、和歌、書、蒔絵、刀剣などに優れた作品を残しており、「花鳥図屏風」(六曲一双 紙本金・銀地著色)をはじめとした作品が仙台市博物館に所蔵されている。また、藩主交代そのものが仙台藩と朝廷の連携を恐れた幕府の圧力であるとの説もある。
綱宗は正徳元年(1711年)、江戸で死亡した。法名は見性院殿雄山全威大居士。遺体は仙台に運ばれ、祖父政宗、父忠宗が眠る経ヶ峯に葬られた。綱宗の墓所は善応殿と呼ばれた。第二次世界大戦中の仙台空襲で、政宗の墓所瑞鳳殿、忠宗の墓所感仙殿と共に焼失した。昭和56年(1981年)から再建のための学術調査が行われ、その結果、綱宗は身長155cmのA型で、死因は喉頭癌であることが明らかになった。また、副葬品には文房具が多く、綱宗の芸術好きが色濃く現れている。なお、遺骨を参考に作られた復元模型が瑞鳳殿の資料館に展示されている。
系譜
- 側室:浄眼院・三沢初子(三沢清長の娘)
- 側室:清雲院(平田氏、藤)
- 側室:安寿院(黒江成房の娘、於梁の方)
- 側室:養性院
- 側室:某氏
- 伊達吉十郎 - 六男。早世
- 側室:証智院(大平氏、とめ)
- 由布姫 - 九女。早世
- 側室:霊照院(今泉良信の娘、かよ)
- 多家姫 - 十女。早世
演じた俳優
脚注
注釈
引用元
参考文献
- 宇神幸男『シリーズ藩物語、宇和島藩』(現代書館、2011年)